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瑜伽洞(田谷の洞窟)

(ゆがどう たや どうくつ)

瑜伽洞は、神奈川県横浜市栄区田谷町1501にある真言宗大覚寺派の田谷山定泉寺の境内に位置する人工洞窟です。正式名称は「瑜伽洞」ですが、一般には「田谷の洞窟」として広く知られています。「瑜伽」という言葉は、密教に由来する専門用語で、修行や瞑想に関わる概念です。1990年(平成2年)11月1日には、横浜市登録地域文化財として「地域史跡」に登録されています。

洞窟と定泉寺の歴史

定泉寺は、1532年(天文元年)に鶴岡二十五坊相承院の僧・快元の門弟である隆継によって建立されたと伝えられています。しかし、瑜伽洞の歴史はそれよりもさらに古く、古墳時代に遡る横穴墓や住居跡であったとされています。

伝説と洞窟の起源

伝説によれば、鎌倉時代の武将である和田義盛の三男、朝比奈義秀が弁才天を祀り、1213年(建暦3年)の和田合戦で敗北した際、この洞窟を通じて落ち延びたと言われています。また、鎌倉幕府が滅亡する際にも、落ち武者たちがこの洞窟に逃れたと伝えられています。洞窟の裏山には、これに関連するとされる十三塚があり、また、近隣の御霊神社まで洞窟が伸びていたとも言われています。これらの伝承はともかく、鎌倉時代には真言密教の修行場として洞窟が掘られたことが起源とされています。

江戸時代から昭和時代にかけての洞窟

江戸時代になると、洞窟の入口が閉ざされ、一時は寂れてしまいました。しかし、天保年間に田谷地区の灌漑用水として洞窟内を流れる音無川を活用するため、再び洞窟の整備が開始され、同時に修行場としての役割も復活しました。明治初期の廃仏毀釈運動では一時的に洞門が再び閉じられ、関東大震災では洞窟に関する資料が散逸する被害を受けましたが、1927年(昭和2年)には一般に公開されるようになり、今日に至っています。

戦後の定泉寺の変遷

定泉寺は当初、鶴岡二十五坊の道場として始まり、近世には横浜市港北区にある鳥山三会寺の末寺となりました。その後、定泉寺は高野山真言宗に属していましたが、第二次世界大戦後に真言宗大覚寺派へと転じ、現在に至っています。

瑜伽洞の構造と特徴

瑜伽洞は、定泉寺本堂の裏手に位置する小さな舌状台地の地下に広がっており、上・中・下の三層構造で複数の道が枝分かれしています。内部には「行者道」という順路が定められており、この順路から外れた道には入ることができないため、迷う心配はありません。また、一部の道は崩壊の危険や宗教的な理由により封鎖されています。行者道には電灯が設置されており、足元も整備されています。

洞窟内部の彫刻と宗教的意義

洞窟内には、10箇所ほどの広い空間が通路で繋がっており、その壁面や天井には曼荼羅や十八羅漢、刈萱道心の仏教説話が彫られています。さらに、西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所、四国八十八箇所の巡礼を模した壁画もあり、これを巡ることで実際の巡礼の代替とされています。また、足柄山の金太郎を描いた庶民的な彫刻も見られます。

洞窟内の水と保存状況

洞窟内には音無川などの水流があり、湿気が彫刻の保存に寄与しています。柔らかい地層の中にこれらの彫刻が保たれているのは、この湿気のおかげです。さらに、洞内には仏像なども安置されており、瑜伽洞は現在でも住僧や一般の希望者による修行の場として、厳粛な宗教空間を保っています。

洞窟の規模と気温

正確な規模は崩壊のため明らかではありませんが、瑜伽洞の全長は約1キロメートルと推定されています。測定可能な部分では、全長約540メートルが確認されています。また、洞内の気温は季節を問わず16℃前後に保たれています。

拝観情報

瑜伽洞の拝観時間は毎日午前9時から午後4時半までです。拝観には定泉寺の受付で拝観料(大人400円)を納める必要があります。洞窟内は電灯で照明されていますが、薄暗いため、受付で蝋燭を受け取り、点灯してから洞窟に入ることが推奨されます。

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名称
瑜伽洞(田谷の洞窟)
(ゆがどう たや どうくつ)

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