掃部山公園は、神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘に位置し、横浜みなとみらい21を見下ろす高台に広がる美しい公園です。この公園は、横浜開港に深く関わった井伊直弼の銅像が立つことで知られています。また、春には桜が咲き誇り、桜の名所としても多くの人々に親しまれています。
江戸時代まで、この場所は海に面した高台で「不動山」と呼ばれていました。明治初期になると、新橋駅と横浜駅(現在の桜木町駅)を結ぶ鉄道の開通に携わった外国人鉄道技師、エドモンド・モレルらの官舎がこの地に建てられました。その後も鉄道用地として利用され、「鉄道山」として知られるようになりました。
1884年(明治17年)、旧彦根藩士たちがこの土地を買い取り、井伊家の所有となりました。そして、1909年(明治42年)には、横浜開港50周年を記念して井伊直弼の銅像が建立されました。しかし、井伊直弼を開国の恩人とする銅像建立の趣意書に対して、山縣有朋や伊藤博文、松方正義、井上馨らが反発し、除幕式には出席しませんでした。この時期から、井伊直弼の官位である「掃部頭(かもんのかみ)」にちなみ、この地は「掃部山」と呼ばれるようになりました。
1914年(大正3年)、井伊家はこの地を横浜市に寄付し、公園として整備されました。第二次世界大戦中には、政府の金属回収指示により銅像は一時的に撤去されましたが、1954年(昭和29年)には横浜開港100周年を記念して再建されました。
現在、園内には約200本の桜が植えられており、春になると多くの花見客で賑わいます。また、1996年(平成8年)には公園内に横浜能楽堂が建設され、伝統芸能を楽しむ場としても活用されています。
公園内に立つ井伊直弼像は、1909年(明治42年)6月26日に完成しました。元々は1881年(明治14年)に記念碑の建立が計画されていましたが、1903年(明治36年)になってから銅像建立に変更されました。銅像は高さ1丈2尺(約3.6メートル)で、「正四位上左近衛権中将」の正装をまとった姿を表しています。原型は工学士の藤田文蔵が作成し、鋳造は岡崎雪聲が担当しました。また、台座は工学博士の妻木頼黄が設計し、高さは2丈2尺(約6.6メートル)に達します。
1923年に発生した関東大震災では、井伊直弼像は倒壊を免れましたが、振動により南へ25度向きを変えることとなりました。その後、1943年(昭和18年)には、戦時中の金属回収指示により銅像部分が撤去されました。しかし、1954年(昭和29年)、横浜開港100周年を記念して再建され、現在もその姿を保っています。
再建された銅像は、彫刻家の慶寺丹長父子によって鋳造されました。彼らは東京の井伊家菩提寺である豪徳寺にある井伊直弼の彫刻を基に、元の銅像と可能な限り一致するように努力しました。新しい銅像は1954年(昭和29年)5月20日に完成し、据え付けられました。
1990年代以降、横浜みなとみらい21の開発に伴い、井伊直弼像はランドマークタワーなどの高層ビルを見上げるような位置関係となり、その風景の中に溶け込んでいます。なお、台座部分は2012年(平成24年)3月28日に横浜市認定歴史的建造物に指定され、地域の歴史を今に伝えています。
掃部山公園は、その地形上、山の底辺から山頂までを利用した設計がされており、散策には適度な運動が求められます。特に、井伊直弼像は山頂付近の広場に位置しており、その見学には少々の労力が必要です。しかし、桜の季節や晴れた日には、横浜能楽堂側からのアクセスが最も便利で、素晴らしい景色を楽しむことができます。