弘明寺は、神奈川県横浜市南区弘明寺町に位置する高野山真言宗の寺院で、瑞應山蓮華院と号しています。この寺は横浜市内で最も古い歴史を持ち、その本尊である木造十一面観世音菩薩立像(通称「弘明寺観音」)は、国の重要文化財に指定されています。寺の名は、町名や駅名としても広く使われ、江戸時代から1889年(明治22年)までは、この地域は「弘明寺村」(のちに「弘明寺町」)と呼ばれていました。
本尊の真言は「おん まか きゃろにきゃ そわか」であり、弘明寺の信仰に深い意味を持っています。また、弘明寺のご詠歌は、「ありがたやちかひの海をかたむけて そそぐめぐみにさむるほのやみ」として伝えられ、信仰の深さを表現しています。
弘明寺の歴史は、寺伝によれば721年(養老5年)に遡ります。インドの僧・善無畏がこの地に結界を創り、737年(天平9年)に行基が観音像を刻んで一宇を建立したと伝えられています。その後、弘仁年間(9世紀初期)には空海が双身歓喜天(弘明寺聖天)を彫刻し安置したと言われています。
1044年には光慧上人により瓦葺きの本堂が建立され、これが弘明寺の基礎となりました。本尊である木造十一面観世音菩薩立像の彫刻年代と、この本堂の建立時期が一致することから、この頃が実際の開山時期であると考えられています。鎌倉時代には、弘明寺は源氏将軍家の祈願所として栄えました。
戦国時代には北条早雲から寺領を、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、坂東三十三箇所観音霊場の十四番札所として、多くの信仰を集めました。しかし、明治時代に入ると全国的な廃仏毀釈の影響を受け、寺領は新政府に没収されました。また、明治中期には無住職となり、寺伝や寺宝、住職系図までもが失われるという苦難に直面しました。
しかし、1901年(明治34年)に渡辺寛玉師が住職に就任すると、弘明寺の復興が始まりました。弘明寺保勝会が設立され、寺と地域の発展に力が注がれました。大岡川沿いの桜並木もこの時期に植樹されたものです。
かつては広大な寺有地を誇っていた弘明寺ですが、廃仏毀釈の影響でその大半を横浜市に譲渡し、現在ではその面積は過去の約2割にまで減少しています。現在の主要な建造物としては、以下のものが挙げられます。
弘明寺には多くの貴重な文化財があり、その中でも特に注目すべきものを以下に紹介します。
弘明寺では、5月下旬から9月上旬までの毎月「8」の付く日は観音、「3」の付く日は聖天の縁日として多くの参拝者で賑わいます。さまざまな露天商が店を開き、遠方からの参詣客も訪れます。
節分の豆まきは戦前から60年以上にわたり続けられてきましたが、2007年を最後に一時中止されました。これは、群集事故の危険性が指摘されたためです。しかし、その後の要望に応えて、2015年2月3日に「節分法会」として復活し、8年ぶりに豆まきが再開されました。再開時には弘明寺商店街も協力し、東日本大震災の被災地支援も行われました。
元は弘明寺の境内であった弘明寺公園や、大岡川の両岸は横浜市内でも有数の桜の名所として知られています。また、弘明寺から鎌倉街道にかけてのアーケード商店街「弘明寺商店街」は、江戸時代の門前町の雰囲気を今に伝える下町の賑わいを残しています。この商店街は、しばしばテレビ番組やCMのロケ地としても利用されています。
なお、現在の弘明寺商店街は、終戦後の闇市を起源とするもので、江戸時代の門前町とは別物です。江戸時代の弘明寺門前町は、現在の蒔田付近に位置していました。
かつて弘明寺は、横浜市電の西の終点であり、鎌倉方面への路線バスとの乗り換えターミナルとしても機能していました。この地域は横浜国立大学工学部の学生街としても栄えましたが、現在ではその役割は港南区の上大岡駅に移っています。現在、弘明寺には横浜市営地下鉄の弘明寺駅があり、京浜急行電鉄の同名の駅とともに交通の要所としての役割を果たしています。