大通り公園は、神奈川県横浜市中区に位置する帯状の都市公園です。JR関内駅から始まり、横浜市営地下鉄伊勢佐木長者町駅をほぼ中央に、阪東橋駅まで続く全長約1,200メートルの細長い公園として知られています。1978年(昭和53年)9月9日に開園し、その独特な形状と歴史的背景から、多くの市民や観光客に親しまれています。
大通り公園の場所には、かつて運河であった吉田川・新吉田川が流れていました。しかし、1973年(昭和48年)にこれらの運河は埋め立てられ、その上に横浜市営地下鉄1号線が建設されることとなりました。その地上部分に、新たな緑地として大通り公園が整備されました。この公園の設置は、横浜市中心部の魅力向上と防災機能の強化を目的とした「緑の軸線構想」の一環として行われ、市民の憩いの場として、また防災用地としても重要な役割を果たしています。
大通り公園は、四つの特徴的なエリアから構成されています。それぞれ「石の広場」、「水の広場」、「サンク・ガーデン」、「みどりの森」と呼ばれ、異なるテーマを持っています。「石の広場」には野外ステージがあり、様々なイベントが開催されます。「水の広場」では、水の一生をテーマにしたデザインが施され、訪れる人々に自然の循環を感じさせます。「サンク・ガーデン」は伊勢佐木長者町駅周辺に位置し、都会の中のオアシスとして静かなひとときを提供します。そして「みどりの森」は、運河がかつて流れていた地域に位置し、緑豊かな自然を楽しむことができます。
大通り公園内には、著名な彫刻家による作品が点在しており、芸術的な雰囲気を醸し出しています。「石の広場」には、フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの「瞑想」が設置されており、その迫力ある姿が訪れる人々を魅了します。「水の広場」では、イギリスの彫刻家ヘンリー・ムーアによる「三つの部分からなるオブジェ」が展示され、その独創的な形状が目を引きます。また、「サンク・ガーデン」には、ロシア出身の彫刻家オシップ・ザッキンの「働く女」が配置されており、力強さと優美さを兼ね備えた作品です。
公園内の伊勢佐木長者町駅改札口前には、かつてこの地にかかっていた橋の橋名板が保存され、「橋の詩」というレリーフとして設置されています。このレリーフは、運河と橋を愛した地元市民の要望により、1981年(昭和56年)10月31日に当時の横浜市長細郷道一によって設置されました。かつて、関内駅方面から阪東橋までの間に10の橋が架けられており、これらの橋は横浜の運河文化を象徴するものでした。「橋の詩」は、その歴史を伝える重要な記念物となっています。
大通り公園が位置するこの地域は、江戸時代初期までは南北を山に囲まれた入り江で、吉田新田と呼ばれていました。しかし、1656年(明暦2年)に吉田勘兵衛によって埋め立てられ、港町横浜の基礎が築かれました。横浜開港後、明治時代に入ると、港と市街地、そしてその後背地を結ぶ運河の開削が行われ、1870年(明治3年)には根岸湾から内陸を結ぶ堀割川が開削されました。この時期、横浜商人であった伏島近蔵が中心となり、市街地の拡大とともに吉田川が延長され、新吉田川が誕生しました。
しかし、昭和30年代に入ると、モータリゼーションの進行により水運が次第に衰退し、運河はその役割を終え、次々と埋め立てられていきました。吉田川と新吉田川も1973年(昭和48年)の工事を経て消滅し、その跡地に現在の大通り公園が誕生しました。この公園は、単なる緑地ではなく、運河の歴史を今に伝える場としても機能しています。
1992年(平成4年)には、大通り公園の西端に「横浜大空襲」の犠牲者を悼む平和祈念碑が横浜戦災遺族会によって建立されました。この祈念碑は、毎年5月29日に内部が公開され、1945年(昭和20年)5月29日の空襲で亡くなった約千人の犠牲者の氏名が刻まれています。市民の思いを集めたこの祈念碑は、歴史を風化させないための重要なシンボルとなっています。
大通り公園は今後もその役割を進化させる予定です。2026年度中の利用開始を目指し、Park-PFIを活用したリニューアル計画が進められています。この計画では、公園内に新たな飲食店の設置も検討されており、より多くの人々に親しまれる場所となることが期待されています。
大通り公園は、歴史と自然、そして市民の思いが融合した場所として、横浜市民のみならず多くの訪問者に愛されています。今後もその魅力がさらに広がり、未来に向けた新たな歴史を刻んでいくことでしょう。