東慶寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内に位置する臨済宗円覚寺派の寺院です。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺とされ、寺伝によれば、開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝えられています。現在は円覚寺の末寺として男僧の寺でありますが、創建以来明治時代に至るまで、独立した尼寺として特別な格式を持ち、江戸時代には松岡御所と称されるなど、特異な存在でありました。
また、江戸時代には群馬県の満徳寺と共に、幕府の寺社奉行から縁切寺として認められ、女性の離婚において家庭裁判所の役割も果たしていました。
山門をくぐると、左側に茅葺屋根の鐘楼が目に入ります。現在の鐘楼は大正5年に建てられたもので、関東大震災で唯一倒壊を免れた建物です。梁には震災時に揺れ動いた梵鐘がめり込んだ跡が残っています。かつて東慶寺には鎌倉時代末期に作られた梵鐘がありましたが、現在は静岡県韮山の本立寺に移されています。現在の梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので、神奈川県の重要文化財に指定されています。
山門を潜り、鐘楼を過ぎると右側に書院の中門があります。書院は元々、1634年(寛永11年)に徳川忠長の屋敷から移築された建物でしたが、関東大震災で倒壊しました。現在の書院は二階堂の山林を売った資金で大正末に再建されたもので、広さは60余坪に及びます。書院から本堂、水月堂へと渡り廊下で繋がっており、東慶寺では様々な文化的イベントが行われています。
書院の門を越えた先にあるのが本堂です。かつては1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿がありましたが、明治時代には荒れ果て、1907年(明治40年)に三溪園に移築されました。現在の本堂は1935年(昭和10年)に建てられたもので、本尊は釈迦如来座像が安置されています。
本堂に隣接して建てられているのが水月堂です。この堂は、元は加賀前田家の持仏堂であり、1959年(昭和34年)に移築されました。水月堂には水月観音菩薩半跏像が安置されており、その名称はこの観音菩薩像に由来しています。
書院と本堂の向かいに位置するのが茶室「寒雲亭」です。この茶室は千宗旦の遺構であり、東慶寺に寄進され、1960年(昭和35年)に移築されました。現在では観音縁日や茶会、体験教室などで利用されています。
本堂の門前を進むと、左側に見えるのが立礼の茶室「白蓮舎」です。一般的なお茶室とは異なり、椅子とテーブルを備えた広い空間が特徴で、敷き瓦を敷いた土間が設けられています。
かつてこの場所には方丈があったと言われていますが、1978年(昭和53年)に鉄筋コンクリート造の土蔵様式で新築されました。ここには木造聖観音立像が安置されており、この像はかつて太平寺の本尊であったと伝えられています。
東慶寺は梅で有名ですが、梅が終わると彼岸桜や枝垂桜が次々と咲き誇ります。本堂の門や寒雲亭の門にも美しい桜が咲き乱れ、春の訪れを告げます。
梅雨の季節には、アジサイやイワタバコが見頃を迎えます。特に宝蔵から墓地に向かう道の壁面一杯に咲くイワタバコは見応えがあります。
秋には宝蔵前の秋桜がピークを迎え、杜鵑や竜胆の花が咲き始めます。紅葉も美しく染まり、訪れる人々を魅了します。
この像は、もともと太平寺の本尊であり、豪華絢爛な装飾が施された貴重な文化財です。
室町時代に作られた香炉で、源氏物語の巻名「初音」にちなんだ蒔絵が施されています。
キリスト教のミサで用いられたとされる「南蛮漆芸」の遺品です。
水月堂に安置されているこの像は、南宋風の自由な姿態が特徴で、鎌倉時代の作とされています。
本堂に安置されている本尊で、寄木造玉眼入りの像です。1515年の火災で多くの古文書が焼失しましたが、この像はその中でも保存されてきた貴重な文化財です。
東慶寺に残る古文書や過去帳には、「開山潮音院覚山志道和尚」と記されています。覚山尼は安達義景の娘であり、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の夫人でした。1284年(弘安7年)4月、北条時宗の臨終に際し、無学祖元を導師として夫婦揃って落髪(出家)し、覚山志道大姉と名乗りました。そして翌1285年(弘安8年)、北条貞時を開基、覚山尼を開山として東慶寺が建立されたと伝えられています。
鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料は、梵鐘の銘文です。鎌倉幕府滅亡前年の1332年(元徳4年)に完成した梵鐘には、覚山尼の子である北条貞時の妻、覚海円成の名が刻まれています。これにより、東慶寺が北条得宗家ゆかりの尼寺であったことが確実視されています。
南北朝時代には、後醍醐天皇の皇女である用堂尼が四世住持果庵了道尼の後を継ぎ、東慶寺の五世住持となりました。「由緒書」では、用堂尼以降、東慶寺は「松岡御所」と称され、比丘尼御所同格の紫衣寺として扱われるようになりました。
用堂尼は兄である護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったとされ、護良親王が殺害された当時、東慶寺が二階堂の地を領有していたことがそのためであると伝えられています。護良親王の墓所である理智光寺も江戸時代には東慶寺が管理していました。
1515年(永正12年)、東慶寺は火災に見舞われました。この火災により、多くの古文書が焼失したと考えられています。しかし、「御所」の称号が見られる最古の史料はその火災から数十年後の北条氏康の書状であり、東慶寺が御所と呼ばれる由緒ある寺であることが確認できます。
室町時代の東慶寺の住持は、代々関東公方や足利氏の娘が務めていました。17世旭山尼や18世瑞山尼などがその代表的な住持であり、東慶寺は鎌倉尼五山第二位とされる有力な尼寺として存続していました。
東慶寺は戦国時代、後北条氏の保護を受けていました。寺領に関する最古の文書は、1547年(天文16年)の北条氏直の印判状であり、東慶寺蔭凉軒の門前3貫40文を安堵するものでした。その後、天正年間の寺領には、山内荘内の舞岡や野庭が含まれ、かなりの規模を誇っていたことが分かります。
1590年(天正18年)、東慶寺は後北条氏を下した豊臣秀吉によって寺領を安堵されました。この時の寺領は、後に徳川家康が関東に入った後に再確認され、112貫の寺領を持つ東慶寺は、鎌倉の寺院の中でも特に重要な位置を占めることになりました。
江戸時代には、豊臣秀頼の娘である天秀尼が東慶寺の20世住持として入寺しました。天秀尼以降、東慶寺は幕府の直轄寺となり、住持の任命も幕府によって行われるようになりました。
天秀尼が20世住持となった時期には、千姫による仏殿の寄進や、徳川忠長の屋敷の移築が行われました。これにより、東慶寺の景観は一新され、天秀尼と徳川家の強い結びつきを示すものとなりました。
天秀尼の時代には、会津四十万石改易事件がありました。この事件は、加藤明成の家臣である堀主水が脱藩し、妻子を東慶寺に預けたことに端を発します。天秀尼は幕府に訴え出て、会津四十万石の改易に関与したと伝えられていますが、史実としての裏付けは不確かです。
天秀尼は1645年(正保2年)に37歳で示寂しました。その後、東慶寺は幕府の管理下で維持され、天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で最も大きな無縫塔として現存しています。
東慶寺は、近世を通じて縁切寺として広く知られていました。駆込寺としての役割は、1870年(明治3年)12月まで続き、女性たちが夫からの離婚を求めて駆け込む場所として機能していました。
東慶寺に残る記録には、駆込女の年齢や駆込み件数が記されています。江戸時代には、主に江戸や武蔵国からの駆込みが多く、特に相模国からの駆込みが目立ちます。駆込みの結果としては、内済離縁が多数を占め、寺法離縁は少数でした。
明治維新により縁切寺法は廃止され、東慶寺は寺領を失いました。その後も寺は存続し、20世紀には男性住職が迎えられ、東慶寺はその役割を変えながらも歴史を刻んでいきました。