鎌倉宮は、神奈川県鎌倉市二階堂に位置する歴史ある神社で、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)を主祭神としています。この神社は建武中興十五社の一社であり、旧社格は官幣中社に属しています。
鎌倉宮は、神社本庁の包括下に入っていない単立神社であり、護良親王の通称である「大塔宮(おおとうのみや)」に因んで、地元では「大塔宮(だいとうのみや)」とも呼ばれています。鎌倉宮の主祭神としては「もりながしんのう」と呼称されていますが、歴史的には「もりよししんのう」と訓まれたと考えられています。
護良親王は、後醍醐天皇の皇子であり、父と共に鎌倉幕府を倒し、建武中興を実現した立役者でした。しかし、その後足利尊氏との対立により、足利方に捕えられ、東光寺に幽閉されました。最終的には、建武2年(1335年)に起こった中先代の乱の混乱の中で、尊氏の弟である直義の命により、淵辺義博(ふちのべよしひろ)によって殺害されました。
護良親王に随行した持明院 南御方(じみょういん みなみのおんかた)は、護良親王の最期を看取った後、上洛して後醍醐天皇へその最期の詳細を報告しました。現在、鎌倉宮の境内には、彼女を祀る摂社「南方社(みなみのかたしゃ)」が設けられています。
護良親王の忠臣であった村上義光(むらかみよしてる)は、吉野落城の際、親王の身代わりとなって壮烈な最期を遂げました。この忠義の勇士としての功績が認められ、1908年(明治41年)には従三位を追贈されました。鎌倉宮の境内には、彼を祀る摂社「村上社(むらかみしゃ)」が存在します。
鎌倉宮は1869年(明治2年)2月に、明治天皇の命により創建されました。これは、護良親王の功績を称え、天皇中心の社会へ復帰させることを目的として行われました。7月には東光寺跡に社殿が建設され、鎌倉宮の社号が下賜されました。
その後、1873年(明治6年)には明治天皇が鎌倉宮を訪れ、その後官幣中社に列格しました。また、1939年(昭和14年)には日本郵船の客船「秩父丸」が「鎌倉丸」と改名され、鎌倉宮から祭神が奉安されました。
鎌倉宮の本殿の後方には、護良親王が幽閉されていたと伝えられる土牢があります。これは土窟で2段構造になっており、古くから伝わるものです。拝観は有料で、土牢内部の様子を見ることができます。
1873年に明治天皇が鎌倉宮を訪れた際に建設された建物で、館内には護良親王に関する貴重な品々が展示されています。また、歴代連合艦隊司令長官の書なども多数展示されており、拝観は有料です。
2004年に樹齢103年の欅の大木を使って彫られた「撫で身代わり様」像があります。この像は護良親王の身代わりとなった村上義光を象ったもので、厄除けや病気平癒のご利益があるとされています。
鎌倉宮の拝殿前には「獅子頭守」の巨大像があります。この赤い獅子頭は、護良親王が兜に忍ばせて無事を祈ったものが由来とされ、厄除けや幸運招来、交通安全などのご利益があると信じられています。
土器に息を吹きかけて厄を移し、それを「厄割り石」に投げつけて厄を祓うための施設です。設置は1980年代頃であり、参拝者は土器を購入して厄払いを行います。
鎌倉市指定の天然記念物であり、鎌倉宮の神木として崇められています。
鎌倉宮の社務所に隣接する二階建ての建物で、参拝者の休憩所として利用されています。結婚式の披露宴会場としても使用され、災害時には避難所としても活用されることがあります。
かつて丹沢地方から奉納されたシカが飼われていた施設がありましたが、1980年代半ばにシカが逝去したため、現在は駐車場となっています。
鎌倉宮へは、JR横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅から京浜急行バス八景線鎌20系統「鎌倉宮(大塔宮)」行きで終点下車すると便利です。