覚園寺は、神奈川県鎌倉市二階堂に位置する、真言宗泉涌寺派の仏教寺院です。山号を鷲峰山(じゅぶせん)と称し、本尊は薬師三尊です。開基は北条貞時、開山は智海心慧(ちかいしんえ)とされ、鎌倉幕府執権北条家歴代の尊崇を集めた歴史的な寺院です。
相模国と武蔵国を結ぶ金沢街道から北に入った谷戸の奥に位置し、境内および周辺の自然環境が良好に保全され、都市化が進む以前の鎌倉の面影を最もよく残す寺のひとつとされています。境内は国の史跡に指定されています。
覚園寺の起源は、鎌倉幕府2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂にあります。『吾妻鏡』および現在の『覚園寺縁起』によれば、建保6年(1218年)、薬師如来の眷属である十二神将のうち「戌神」(伐折羅大将)が北条義時の夢に現れたことが、薬師堂建立の端緒となりました。この薬師堂は、後に9代執権北条貞時の時代に正式な寺院として覚園寺となりました。
『吾妻鏡』に記録された内容によると、北条義時が将軍源実朝の鶴岡八幡宮参拝に付き従った後、夢の中で薬師十二神将の「戌神」が現れ、「来年の参拝には同行しないように」との警告を受けたことが、大倉薬師堂建立のきっかけとなりました。その後、運慶に依頼して薬師如来像と十二神将像を制作し、大倉の地に薬師堂を建てました。
翌年、鶴岡八幡宮で実朝の右大臣拝賀の式典が行われた際、義時は夢の警告を受け入れ、源仲章に御剣役を代わりました。その結果、源仲章は実朝と共に公暁によって暗殺されました。義時は「戌神」の警告がこの事件を予見していたものと信じ、その後、大倉薬師堂に参拝し、十二神将の「戌神」が堂からいなくなっていたことを知ります。戌神は白い犬に姿を変えて義時を守ってくれたとされています。
このような由緒を持つ大倉薬師堂は、北条家の歴代執権によって尊崇されてきました。『吾妻鏡』によれば、薬師堂は1243年に火災に遭い、仏像は救出されました。その後、建長2年(1250年)には時頼が病の回復を願って参拝しています。時頼の時代には、薬師堂が再建され、その後も覚園寺は鎌倉幕府や足利氏の保護を受けて発展していきました。
1296年(永仁4年)、9代執権北条貞時は外敵退散を祈念して、大倉薬師堂を正式な寺院に改め、覚園寺を創建しました。この時期には、元寇の脅威がまだ去っていなかったため、寺院としての強い護国の祈りが込められました。覚園寺は当初、真言、天台、禅、浄土の四宗兼学の寺院として機能し、鎌倉幕府の保護を受けました。
鎌倉幕府が滅亡した後の元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は覚園寺を勅願寺としました。その後の南北朝時代には、足利氏も覚園寺を祈願所として保護し、建武4年(1337年)の火災後、足利尊氏によって仏殿が再建されました。現在の薬師堂も、この時の再建に由来するものです。
覚園寺の境内は、鎌倉の地形の特色である尾根と尾根の間に深く入り込んだ谷(やつ)に広がっています。この谷は薬師堂ヶ谷と呼ばれ、鎌倉宮(大塔宮)から覚園寺へ向かう道の途中にある庚申塔の立っている場所がかつての覚園寺総門跡であり、その左手にはかつて大楽寺がありました。境内には多くの樹木が生い茂り、自然環境が良好に保持されています。
文保元年(1317年)に二階堂行朝が開基した大楽寺の仏堂で、明治初年に廃寺となった際に覚園寺に移築されました。本尊の木造愛染明王坐像をはじめ、鉄造不動明王坐像、木造阿閦如来(あしゅくにょらい)坐像などが安置されています。愛染明王は、赤い腕が6本あり、「幸せになるために恐れや不安を打ち消し、ひたすら前に進む力」や「情熱」をつかさどる仏様です。
寄棟造、茅葺きの仏堂で、柱間が正面・側面ともに5つの方五間の構造です。覚園寺は禅宗寺院ではありませんが、薬師堂の建築様式は禅宗様を基調としています。堂正面は中央3間を花頭枠付きの引戸とし、組物を詰組とし、柱を礎盤と粽(ちまき)付きの円柱とする点など、禅宗様の特徴が見られます。内部は一般的な禅宗仏殿のように石敷きではなく土間となっており、天井は中央の方三間部分が鏡天井となっています。
薬師堂の前身堂は文和3年(1354年)に足利尊氏によって建立されましたが、江戸時代の元禄2年(1689年)に古材を再利用しつつ改築されています。現在の堂にも前身堂の部材が多数使用されており、天井裏にも前身堂の材が残されています。これにより、尊氏建立当時の本堂は現在より平面、高さともに規模が大きく、屋根も裳階付きであったことが確認されています。
堂内には禅宗様の須弥壇が設けられており、本尊の薬師三尊像のほか、十二神将像、阿弥陀如来坐像、伽藍神像などが安置されています。これらの仏像はすべて国の重要文化財に指定されています。
薬師堂の本尊であり、三尊とも坐像で寄木造、玉眼です。像高は中尊の薬師如来が181.3センチ、脇侍の日光菩薩・月光菩薩がそれぞれ149.4センチと150.0センチです。中尊は一般的な施無畏与願印ではなく、法界定印(腹前で両手を組む)の掌上に薬壺を乗せています。両脇侍像は脚を崩して安坐した姿に表現され、がっしりした体躯の中尊像と女性的な顔立ちの両脇侍像とは作風が異なっています。
十二神将立像は、最大の亥神像が189.7センチ、最小の戌神像が152.6センチの高さです。午神像の像内には応永8年(1401年)の法橋朝祐の銘があり、未神、申神、酉神、亥神の各像にはそれぞれ応永15・16・17・18年(1408 – 1411年)の像内銘があります。これらの銘文から、十二神将像は仏師朝祐が1年に1体ずつ、12年をかけて造像したことがわかります。
愛染堂の背後に位置する小堂で、本尊は黒地蔵の通称で知られる木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)です。地蔵菩薩は、大地の力を宿す仏様として信仰され、田畑に恵みを与える存在として崇められています。大地の力は「いのち」を育む力とも解釈され、子どもを護る仏様として信仰され、朱色の帽子や前掛けが魔よけとして着せられています。
旧内海家住宅は、鎌倉市手広にあった江戸時代の名主の住宅で、1981年に覚園寺に移築されました。寄棟造、茅葺きの建物で、宝永3年(1706年)の建築とされています。内部は、左手に広い土間があり、床上部には板敷の広間と台所、畳敷きの2室(入側、オク)と納戸から構成されています。この住宅は、当時の日本人の生活様式を今に伝える貴重な建物です。
境内奥の墓所には、智海心慧の墓塔である開山塔と2世大燈源智の墓塔である大燈塔が並んで建っています。これらの石造宝篋印塔は正慶元年(1332年)に建立されました。1965年に行われた解体修理時には、2基の塔内から蔵骨器や納置品が発見されました。特に智海心慧の蔵骨器に用いられていた黄釉草葉文壺は古瀬戸の優品であり、陶磁史上でも貴重な遺品とされています。
鎌倉の地形特性を反映して、覚園寺の境内には多くの「やぐら」と呼ばれる横穴墓が存在します。これらは、中世の鎌倉武士や有力者の墓として使用されていたもので、山の斜面に掘られた穴に埋葬されていました。覚園寺のやぐらもその一部であり、寺院の歴史と鎌倉の風土を物語る重要な文化財となっています。
境内は1967年(昭和42年)6月22日に「覚園寺境内」の名称で国の史跡に指定されています。
覚園寺では、毎年8月10日に「黒地蔵縁日」が開催されます。この縁日では、午前0時から正午まで参拝が可能で、多くの参拝者が訪れます。黒地蔵は特に子どもを守護する仏様として知られており、多くの家族連れが参拝します。
覚園寺へのアクセスは、JR横須賀線や江ノ島電鉄の鎌倉駅から京浜急行バスを利用し、「大塔宮」(鎌倉宮)バス停で下車、徒歩約10分です。覚園寺の静かな境内で、歴史ある鎌倉の風景を楽しむことができます。拝観時には、自然に囲まれた境内を散策し、仏教文化や歴史を感じるひとときを過ごせるでしょう。