亀ヶ谷坂は、神奈川県鎌倉市に位置し、鎌倉七口のひとつとして知られる歴史的な坂道です。山ノ内から扇ガ谷へと続くこの坂道は、その急勾配から別名「亀返坂」とも呼ばれています。これは、あまりの急坂に亀が途中で引き返したり、ひっくり返ったりしたという伝説に由来しています。
亀ヶ谷坂の名称については、江戸時代初期の『玉舟和尚鎌倉記』では「亀ヶ井坂」と記され、1685年(貞享2年)の『新編鎌倉志』以降は「亀ヶ谷坂」とされています。しかし、鎌倉時代にこの場所に道があった確実な証拠はなく、一般に広まっている「仁治元年(1240年)に北条泰時が開削した」という説も、文献には明確な記述がありません。
歴史学者の高柳光寿は、『鎌倉市史(総説編)』の中で、現在の横須賀線西側の谷を越えた場所に道があったのではないかとする説を提唱しています。いずれにしても、遅くとも鎌倉時代後期には現在の位置に道があったことが、状況証拠から確認されています。
1969年(昭和44年)6月5日、亀ヶ谷坂は国の史跡に指定されました。この坂は、扇ガ谷と山ノ内を結び、武蔵(現在の東京・埼玉県ほぼ全域および神奈川県東部を含む地域)へと続く重要な交通路としての役割を果たしていました。現在でも、この坂道は生活要路として使用されています。
亀ヶ谷坂は急な坂道として知られ、伝説によれば建長寺の大覚池にいた亀がこの坂を登ろうとしたところ、急坂のため途中で引き返した、またはひっくり返ったことから「亀返坂」とも呼ばれるようになりました。
また、この坂の北側には「延寿堂谷(えんじゅどうがやつ)」と呼ばれる場所があります。この名称は、昔、建長寺の僧たちが体調を崩した際に療養した「延寿堂」があったことに由来します。
鎌倉七口(かまくらななくち)とは、三方を山に囲まれた相模国鎌倉への陸路からの入口を指す名称です。この「七口」という呼び名は鎌倉時代には存在せず、京都の「七口」をもじったものです。また、鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)とも呼ばれ、鎌倉への主要な交通路として重要視されていました。
1996年(平成8年)には、文化庁の「歴史の道百選」に「鎌倉街道-七口切通」として選定されました。しかし、現状の鎌倉七口の中には、巨福呂坂が新道となり痕跡だけが残り、極楽寺坂切通も普通の車道となっているなど、かつての趣を残している場所は限られています。
現在でも明治時代以前の趣を残しているのは、大仏切通、朝夷奈切通、名越切通の3箇所と、多少趣を残している化粧坂と亀ヶ谷坂です。しかし、これらの切通しの姿も、後世に整備されたものであり、鎌倉時代のものがそのまま残っているわけではありません。例えば、名越切通の発掘調査では、鎌倉時代には現在の場所より高い位置に道があり、復旧が繰り返された結果、現在のルートが江戸時代に整備されたものであることが確認されています。