神奈川県鎌倉市に位置する極楽寺は、真言律宗の寺院であり、霊鷲山 感応院 極楽律寺(りゅうじゅさん かんのういん ごくらくりつじ)と号します。本尊には釈迦如来が祀られており、開基(創立者)は北条重時、開山は忍性です。
極楽寺は、鎌倉市西部の鎌倉七口の1つである極楽寺坂切通の近くにあります。これは、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院です。実質的な開祖は僧忍性であり、中世には子院49箇院を有する大寺院であったとされています。また、周辺の町名でもある「極楽寺」はこの寺院から由来しています。
永禄4年(1561年)に成立した『極楽寺縁起』によると、極楽寺はもともと深沢(現・鎌倉市西部)にあった念仏系の寺院であり、開山は正永和尚です。正元元年(1259年)、北条重時によって当時「地獄谷」と呼ばれていた現在地に移されました。この地は現実には死骸が遺棄され、行き場を失った者たちが集まる「地獄」とも言える場所であったため、北条重時はこの地に極楽寺を建立しました。
北条重時は、鎌倉幕府の第2代執権・北条義時の三男であり、第3代執権・北条泰時の弟にあたります。重時は六波羅探題として17年間にわたり京都の最高責任者を務めた後、鎌倉に戻り、宝治元年(1247年)から鎌倉幕府の連署として5代執権・北条時頼を補佐しました。康元元年(1256年)には剃髪して仏門に入り、観覚と号しています。弘長元年(1261年)に重時が亡くなった後、子の北条長時(鎌倉幕府6代執権)と北条業時が父の遺志を継いで、極楽寺の伽藍を整備しました。
また、『極楽寺由緒沿革書』によれば、寺の起源については諸説あり、永久年間(1113-1118年)に僧勝覚が創建したとする説も存在しています。重時は「極楽寺殿」と称され、その系統は「極楽寺流」と呼ばれました。
極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)であるとされています(『忍性菩薩行状略頌』)。当時の極楽寺の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの医療・福祉施設があり、寺院としての役割を果たしていたことがわかります。
『吾妻鏡』によると、弘長3年(1263年)の北条重時の3回忌法要は極楽寺で行われ、西山浄土宗の僧である宗観房が導師を務めました。このことから、弘長3年時点では極楽寺は浄土教系の寺院であり、忍性の入寺(1267年)によって真言律宗に改宗したという説もあります。ただし、寺に伝わる仏具(五鈷鈴)には建長7年(1255年)の年記があり、「極楽律寺」の文字が見えることから、忍性の入寺以前に真言律宗寺院化していたとする意見も存在します。
極楽寺は忍性の入寺から10年も経たない建治元年(1275年)に焼失しますが、忍性自身によって再建されました。最盛期には七堂伽藍に49箇院の子院が立ち並んでいたと言われています。
徳治3年(1308年)には火災で焼失し、修復費用の獲得のため、正和4年(1315年)ごろに元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、極楽寺の僧侶・円琳坊が同乗していました。元弘3年(1333年)には後醍醐天皇の綸旨を得て寺領が安堵されましたが、鎌倉幕府の滅亡に伴う戦乱で損害を受けました。その後も度重なる火災により焼失と復興を繰り返しました。
応永32年(1425年)にも火災で焼失し、永禄年間(1558-1570年)には当時の住職・性善が中興しましたが、元亀2年(1571年)にも火災に遭いました。天正19年(1591年)には徳川家康から九貫五百文の朱印地が与えられました。
近世には、寛永10年(1633年)に極楽寺を訪れた沢庵宗彭が「壁は落ち、屋根は破れ、棟木はたわんでいる」と描写しており、江戸時代初期には荒廃が進んでいたことがわかります。その後、明暦2年(1656年)には当時の住職・恵性が再度中興し、天明5年(1785年)には極楽寺の檀家と称名寺から「後住決定願」という文書が本山の西大寺に提出されました。これは、本山に対して極楽寺の次の住職を派遣してほしいと願うもので、当時の極楽寺が無住であったことが伺えます。
近代に入り、関東大震災(1923年)では本堂が倒壊するなどの大きな被害を受け、現存する伽藍は山門が文久3年(1863年)に建立されたほか、近代の再興によるものです。
江ノ島電鉄極楽寺駅近くには茅葺きの山門があり、桜並木の参道を進んだ先には本堂、大師堂、転法輪殿(宝物館)、茶屋などが建っています。本堂前には忍性が薬作りに使ったとされる石鉢と石臼があり、本堂裏(西)には鎌倉市立稲村ケ崎小学校が存在します。同校の校地が往時の極楽寺の中心伽藍があった場所とされており、小学校の西側のグラウンドのさらに西には極楽寺の奥の院(墓地)があり、忍性塔と呼ばれる大型の五輪塔をはじめ、多くの石塔が立っています。
本堂には須弥壇中央に不動明王坐像、向かって右に薬師如来坐像、左に文殊菩薩坐像が安置されています。堂内向かって右奥には忍性像、左奥には興正菩薩(叡尊)像も安置されています。堂内は平素は非公開で、4月7日から9日のみ入堂可能です。文殊菩薩像は鎌倉時代の作です。
忍性塔は極楽寺奥の院の墓地にある、高さ357センチメート
極楽寺の境内には、多くの見どころがあります。江ノ島電鉄の極楽寺駅から徒歩数分の距離に位置しており、参道には桜並木が美しく続いています。境内に入ると、茅葺きの山門が出迎えてくれます。
本堂の前には、忍性が薬作りに使っていたとされる石鉢と石臼が置かれています。須弥壇の中央には、不動明王坐像が安置され、向かって右には薬師如来坐像、左には文殊菩薩坐像があります。堂内の向かって右奥には忍性像が、左奥には興正菩薩(叡尊)像が配置されています。本堂の内部は普段は非公開ですが、毎年4月7日から9日の間にのみ公開されます。
忍性塔は、極楽寺の奥の院にある大型の五輪塔で、高さは357センチメートルです。塔には銘記がありませんが、納置品から嘉元3年(1303年)頃の建造であることがわかります。この塔も普段は非公開で、4月8日のみ公開されています。
忍性塔の右側には、かつて北条重時の墓塔とされていた石造五輪塔があります。この塔は昭和2年(1927年)4月8日に国の史跡に指定されましたが、昭和36年(1961年)の集中豪雨で倒れた際に塔内から納置品が発見され、北条重時の墓ではなく、極楽寺3世善願坊順忍と比丘尼禅忍の供養塔であることが判明しました。そのため、「北条重時墓」としての史跡指定は昭和37年(1962年)に解除されました。
忍性塔の周囲には、延慶3年(1310年)銘の五輪塔(重要文化財)や、北条重時の墓塔と伝えられる宝篋印塔などもあります。これらの文化財は、極楽寺の歴史的価値を示しています。
現在、寺に伝わる「極楽寺境内絵図」については議論が続いています。江戸時代の絵図によれば、当時の極楽寺は現在の境内よりも遥かに広大で、奈良の興福寺のような金堂が配置されていたとされています。また、東寺のような伽藍があり、離れた位置には室生寺や熊野本宮、熊野那智大社が配置されていたという説もあります。これは、元寇の際に西日本全体が占領された場合に備えて、奈良・京都を中心とした寺社を集約して備えたという解釈です。
極楽寺境内と忍性墓は、1927年に国の史跡に指定されました。2008年には、中世の遺構や地形が良好に残る旧境内中心部が追加指定され、名称が「極楽寺境内・忍性墓」に改められました。
極楽寺には多くの重要文化財があります。
極楽寺は以下の札所としても知られています。
住所は神奈川県鎌倉市極楽寺3-6-7です。江ノ島電鉄線の極楽寺駅から徒歩2〜3分の距離にあり、駐車場はありません。拝観時間は9:00から16:30までで、入場は無料です。また、宝物殿は4月25日から5月25日、10月25日から11月25日の間の火・木・土・日曜日のみ開館(10:00から16:00)ですが、2019年6月から2年間の予定で長期休館中です。本尊釈迦如来立像は4月7日から9日のみ開扉され、忍性塔は4月8日のみ公開されています。境内は撮影禁止となっています。