妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町に位置する日蓮宗の本山であり、霊跡寺院としても知られています。山号は「長興山」。池上法縁五本山の一つに数えられ、その歴史と由緒は非常に深いものです。
妙本寺がある比企谷(ひきがやつ)は、鎌倉時代に比企能員一族の屋敷があった場所です。比企能員は源頼朝に仕えた有力な御家人であり、頼朝の乳母・比企尼の養子でもありました。彼の一族は源氏との関係が深く、特に源頼家との関係が強かったため、北条氏との対立が避けられませんでした。建仁3年(1203年)、源頼家が病に倒れると、北条氏と比企氏の間で後継者争いが勃発し、これが比企氏の滅亡へと繋がりました。
能員の末子である能本(のちの日能本)は、和田義盛に預けられた後、安房国に配流されました。その後、彼は京都で順徳天皇に仕え、承久の乱の際には天皇と共に佐渡に赴くこととなります。その後、彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘・鞠子)が4代将軍・九条頼経の御台所となり、これを機に鎌倉に戻ることが許されました。
文暦元年(1234年)、竹御所が難産の末に男子を死産し、自らも亡くなりました。彼女は死の直前に、持仏であった釈迦如来像を祀るために釈迦堂を建立するよう遺言を残しました。これを受けて、嘉禎元年(1235年)に比企谷に新釈迦堂が建立され、竹御所もその下に葬られました。
その後、建長5年(1253年)に能本は日蓮に帰依し、文応元年(1260年)には父・能員と母の菩提を弔うために法華堂を建立しました。この際、日蓮が「長興」と「妙本」の法号を授けたことから、寺号を「長興山妙本寺」と定めたと伝えられています。日蓮の死後、六老僧の一人である日朗が寺を継承し、比企谷妙本寺を拠点とする朗門の三長三本の一つとして、長谷山本土寺や長栄山本門寺を管轄しました。
比企谷門流にとって、妙本寺と本門寺は重要な拠点であり、昭和16年(1941年)までは一人の住持が二つの寺を管轄する「両山一首制」によって護持されていました。しかし、天正19年(1591年)に佛乗院日惺が徳川家康の江戸入府に伴い本門寺に本拠を遷したため、妙本寺には別当職である「司務職」が置かれ、比企谷全山を統括しました。歴代司務職は妙本寺の本院・本行院の住持が就任することが慣例でした。
妙本寺は最盛期には直末寺165カ寺を擁し、朱印領1貫500文を持つ大寺として隆盛を極めました。しかし、天保13年(1842年)には天保の改革で廃寺となった感応寺の本堂の部材が妙本寺に運び込まれました。昭和16年(1941年)には「一山一首制」に移行し、平成16年(2004年)には霊跡寺院に昇格しました。
昭和6年(1931年)に建てられた木造入母屋造亜鉛葺で、正面には釈迦牟尼佛像が安置されています。この像は延宝5年(1677年)に岡藩4代藩主・中川久恒が寄進したものです。
天保年間(1830~1844年)に輪成院日教によって建立された、鎌倉最大級の木造入母屋造瓦葺の建物です。
大正14年(1925年)に再建された木造入母屋造瓦葺の堂で、比企能員の変の際に自害した若狭局を祀っています。後に日蓮によって「蛇苦止大明神」として祀られました。
昭和9年(1934年)に再建された木造瓦葺の鐘楼です。
関東大震災で倒壊しましたが、大正14年(1925年)に再興されました。
天保年間に建立された木造朱塗銅板葺の八脚門で、持国天と毘沙門天が祀られています。
昭和41年(1966年)に建立された鉄筋コンクリート造の建物です。
弘安3年(1280年)に日蓮が筆を執った本尊で、「蛇形本尊」とも呼ばれています。日蓮が池上宗仲邸で臨終を迎えた際に枕元に掛けられたもので、日蓮宗の宗定本尊となっています。
竹御所の持仏として安置されていた釈迦如来像です。
日蓮が存命中に製作されたとされる「壽像の祖師」として知られる像で、祖師堂に安置されています。
国の重要文化財に指定されています。
妙本寺には多くの文学者たちが足を運び、その作品に影響を与えました。国木田独歩や塚本柳斎、長谷川海太郎、中原中也、小林秀雄などが妙本寺に縁のある人物として知られています。
妙本寺は歴史的にも文化的にも非常に価値のある場所であり、その静謐な雰囲気は訪れる人々に深い感銘を与えます。是非一度、足を運んでその歴史と文化に触れてみてください。