化粧坂(けわいざか)は、鎌倉七口の一つであり、神奈川県鎌倉市扇ガ谷から源氏山公園を結ぶ歴史的な切通し道です。この坂は「仮粧坂(けはいざか)」とも表記され、古くから鎌倉の重要な交通路として知られています。
化粧坂は、主に武蔵国の国府(現在の府中市・国分寺市)から上野国へ向かう道、すなわち鎌倉街道上道の出口として利用されていたと考えられています。しかし、鎌倉時代初期には、武蔵国の東へ向かう鎌倉街道中道や下道もまたこの坂を通った可能性があり、鎌倉時代を通じて交通の要所として重要な役割を果たしました。
化粧坂の名前の由来には諸説がありますが、以下の説が伝えられています:
「化粧」を「ケショウ」と読むと、現代の意味である「白粉でお化粧」の意味になりますが、古くは「ケワイ」とも読み、この場合は「身だしなみを整える」という意味で使われました。そのため、「ケワイ(化粧)坂」は、「都市」=「ハレの場」に入る境界で身だしなみを整える坂と解釈されることもあり、鎌倉の内と外を分かつ境界の坂であったと考える説があります。
また、鎌倉以外の地域でも「化粧坂」という地名は多く見られ、中世の国府や守護所などの近くにも存在しており、その地名の由来にも同様に「身だしなみを整える」という意味が含まれている場合があります。
史料上で化粧坂が初めて登場するのは、鎌倉時代の『吾妻鏡』建長3年(1251年)12月3日の条で、「鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々」の中に「気和飛坂山上」と記されている箇所です。ただし、『吾妻鏡』には複数の写本があり、北条本には「乗和飛坂」と記されています。このことから吉田東伍の『大日本地名辞書』では、「乗和」をアマノワと読み、甘縄の魚町に関連する説が提唱されていますが、広く受け入れられてはいません。
また、化粧坂は鎌倉時代後期や南北朝時代にも重要な役割を果たしました。元弘3年(1333年)の北条氏滅亡時、『太平記』には「粧坂」として記されていますが、『梅松論』には化粧坂の名前は出ていないものの、化粧坂山上の北側にある「葛原」が戦場として描かれており、新田義貞はここを突破できず、稲村ヶ崎から鎌倉中に攻め入ったことが記録されています。
以上から、現在の「葛原ヶ岡」のすぐ傍にある「化粧坂」が「気和飛坂」とも呼ばれており、『吾妻鏡』の記録にある「気和飛坂」が現在の化粧坂であると考えられています。
鎌倉の世界遺産登録に向けて行われた2000年(平成12年)度および2001年(平成13年)度の調査では、名越坂とともに化粧坂で荼毘の跡が発見されました。これにより、化粧坂が単なる通り道ではなく、歴史的な儀式や出来事にも関与していたことが示唆されています。
「化粧坂」の鎌倉側の道筋について、『鎌倉市史(総説編)』(高柳光寿)では、化粧坂山頂から亀ヶ谷辻を通り、寿福寺前を曲がって現在の鶴岡八幡宮一の鳥居・太鼓橋(当時は赤橋)の前へ至る道を「鎌倉中の武蔵大路」としています。これにより、鎌倉の中心から武蔵国の中心(府中)へ向かう道の境界が「化粧坂」であり、建長3年(1251年)以前から坂上には武蔵国方面の物流拠点として市場や商店街が開かれ、賑わいを見せていたと考えられます。
元弘の乱が勃発した元弘元年(1331年)には、捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られるという悲劇が起こりました。明治時代になると、日野俊基を祀る葛原岡神社が建てられ、現在は日野俊基の墓も設けられています。
現在、鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂部分は1969年(昭和44年)11月29日に国の史跡に指定されていますが、道の痕跡はいくつも残されており、鎌倉時代にどのルートが使われていたのかは必ずしも明確ではありません。さらに、その外側の道も不明な点が多く、1882年(明治15年)の帝国陸軍のフランス式1/20000地図には、梶原方面への道が一番太く描かれているほか、洲埼方面への尾根沿いの道や北鎌倉方面への道、北条常盤亭方面への尾根道なども記されています。
このように化粧坂は、単なる歴史的な道路というだけでなく、鎌倉時代や南北朝時代における重要な戦略拠点や物流の要所として、多くの歴史的出来事に関わってきた場所であることがわかります。