円覚寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内に位置する臨済宗円覚寺派の大本山です。正式名称は「瑞鹿山 円覚興聖禅寺(ずいろくさん えんがくこうしょうぜんじ)」であり、鎌倉五山の第二位に位置づけられています。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、そして開山(初代住持)は中国僧の無学祖元(むがく そげん)とする歴史的な寺院です。
円覚寺は鎌倉時代の弘安5年(1282年)、鎌倉幕府執権であった北条時宗が、元寇(モンゴル軍の襲来)によって戦死した人々を供養するために創建しました。北条時宗は中国から高僧・無学祖元を招き、この寺院を開山しました。当時、鎌倉には既に建長寺がありましたが、円覚寺は北条氏の私寺としての性格が強く、特に時宗の個人的な信仰が反映されています。
円覚寺の創建は弘安4年(1281年)に始まり、翌年に無学祖元を迎えて開堂供養が行われました。無学祖元は、北条時宗が師と仰いでいた蘭渓道隆の死去後、代わりの高僧として中国から招かれました。その結果、円覚寺は禅宗の中心地としての地位を確立しました。
山号の「瑞鹿山」は、寺の開堂儀式の際に白鹿の群れが現れて説法を聴いたという伝説に由来します。また、寺号の「円覚」は、時宗と蘭渓道隆が寺を建てる場所を探していた際、現在の円覚寺の地で発掘された「円覚経」という経典に因んでいます。
円覚寺は創建以降、度重なる火災に見舞われました。特に応安7年(1374年)の大火や、永禄6年(1563年)の大火、大正12年(1923年)の関東大震災などで大きな被害を受けましたが、その都度再建され、現在に至ります。
創建当初、円覚寺は総門、三門(山門)、仏殿、法堂、方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様式の伽藍配置を持っていましたが、永禄6年(1563年)の火災で多くの建物が失われました。現在の仏殿は1964年(昭和39年)に再建されたもので、鉄筋コンクリート造ですが、元亀4年(1573年)の設計図に基づいて建てられています。
仏殿は1964年(昭和39年)に再建されました。鉄筋コンクリート造ですが、元亀4年(1573年)の仏殿指図(設計図)に基づいて建てられています。堂内には本尊の宝冠釈迦如来像や梵天・帝釈天像が安置されており、天井には前田青邨の監修のもと、日本画家の守屋多々志が描いた「白龍図」があります。
選仏場は元禄12年(1699年)に建てられた茅葺き屋根の建物で、坐禅道場として使用されています。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置しています。この建物は、かつて仏殿としても使用されていました。
方丈は寺の住持が住む建物であり、現在では各種儀式や行事に使用されています。前庭には無学祖元が植えたと伝えられるビャクシンの古木があり、寺の歴史を感じさせます。
総門には「瑞鹿山」の額が掲げられており、円覚寺の入り口として重要な役割を果たしています。
天明5年(1785年)に大用国師誠拙周樗によって再建されたとされています。山門の額字は伏見上皇の勅筆とされ、楼上には十一面観音や十六羅漢像が安置されています。
円覚寺の舎利殿は神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する塔頭・正続院内にあります。舎利殿は入母屋造で、一見2階建てに見えますが、一重裳階付きの建物です。堂内には源実朝が南宋から請来したと伝えられる仏舎利(釈尊の遺骨)が安置されており、地蔵菩薩像と観音菩薩像も左右に立っています。
舎利殿は、典型的な禅宗様の建築特徴を持ち、鎌倉時代の建築と考えられていましたが、室町時代の応永14年(1407年)の建立とされる正福寺地蔵堂と同じ頃の建築と考えられています。現在は通常非公開で、正月3が日と11月3日前後に外観のみが公開されます。神奈川県立歴史博物館には内部の復元模型が展示されています。
円覚寺総門の手前にある白鷺池は、円覚寺の境内の一部であり、その名は開山無学祖元が鎌倉入りした際に白鷺が案内したという故事に由来します。この池は、明治時代に建設されたJR横須賀線が無理やり通過させられたため、現在の位置関係となっています。
総門には「瑞鹿山」の額が掲げられ、三門(山門)は天明5年(1785年)に再建されました。楼上には十一面観音や十六羅漢像が安置されています。
弁天堂は三門から向かって右にある鳥居をくぐり、長い石段を登った先に位置し、江ノ島弁天と関係が深い場所です。また、近くには円覚寺の象徴ともいえる洪鐘があります。
塔頭とは、祖師や高僧の墓塔を守るために建立された小寺院を指します。円覚寺には最盛期には42か院の塔頭がありましたが、現在では19か院を残しています。そのうち常時公開されているのは佛日庵、黄梅院、桂昌庵(閻魔堂)などです。
正続院は円覚寺の開山である無学祖元を祀る塔頭であり、舎利殿もこの中にあります。正続院はもともと建長寺にありましたが、夢窓疎石によって円覚寺に移されました。
佛日庵は、8代執権北条時宗の廟所であり、9代執権貞時や14代執権高時も合葬されています。境内には川端康成の小説『千羽鶴』のモデルとなった茶室や、中国の小説家・魯迅から寄贈されたハクモクレンとタイサンボクがあります。
黄梅院は、第15世夢窓疎石の塔所であり、文和3年(1354年)に開創されました。現在でも、その歴史的な建築様式や美しい庭園は、多くの人々に愛されています。
北鎌倉駅前の山ノ内交番付近にある小道で、鎌倉街道と平行しています。本来の円覚寺境内は鎌倉街道を含んでおり、鎌倉側と大船側にそれぞれ門が設置されていました。馬道は境内を通らない迂回路として利用され、境界の土塁が残っています。
円覚寺総門の手前、横須賀線の踏切を渡った向かい側に位置する池で、円覚寺境内の一部です。明治時代に鉄道建設のために線路が境内に通過させられた結果、この位置関係になりました。池の名前は、開山無学祖元が鎌倉入りした際に白鷺に案内されたという故事に由来しています。
円覚寺はその歴史と文化的価値から、多くの文化人に影響を与えてきました。例えば、夏目漱石や島崎藤村が参禅したことで知られ、漱石の小説『門』には、円覚寺をモデルにした描写が登場します。また、川端康成の小説『千羽鶴』にも、円覚寺の茶室がモデルとして描かれています。
円覚寺は鎌倉時代から続く長い歴史を持ち、多くの文化財や重要な建築物が残る貴重な寺院です。特に、北条時宗や無学祖元といった歴史的人物に縁が深く、禅宗の教えを今に伝える場所として、広く知られています。円覚寺の伽藍や塔頭、そしてその歴史を紐解くことで、鎌倉時代の仏教文化に触れることができるでしょう。