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清閑亭

(せいかんてい)

清閑亭は、神奈川県小田原市に位置する歴史的な建造物です。この邸宅は、1906年(明治39年)に当時の政治家であり侯爵であった黒田長成の別邸として建てられました。清閑亭は、その美しい景観や建築様式、そして歴史的背景から、訪れる人々に貴重な文化財として認識されています。

概要

清閑亭は、旧小田原城の三の丸外郭の土塁に位置し、現在は国の史跡(小田原城跡の一部)として保存されています。邸宅である母屋は、数寄屋造りの平家と二階建てが雁行に連なる形式で設計されています。特に、平家部分は関東大震災を耐え抜いた貴重な建築物であり、板絵襖や欄間、網代組天井など、優れた意匠が施されています。

また、清閑亭からは、真鶴半島や大島を望む相模湾、さらには箱根山の景観も楽しむことができ、旧小田原城の三の丸外郭土塁が良好に保存されています。土塁上に広がる庭園は、松を主体とした芝庭であり、松林が連なる海と山を借景とする巧みな設計が施されています。

さらに、毎年8月14日には、黒田長成侯爵の命日を記念して『桜谷忌』が催され、歴史的な価値を今に伝え続けています。

清閑亭の経緯

明治期の別荘文化と清閑亭の誕生

明治時代の小田原には、相模湾沿いの海岸地域を中心に、政財界人たちの別荘群が形成されていました。1890年(明治23年)には伊藤博文による「滄浪閣」が建設され、その後も続々と別荘が建てられていきました。しかし、1902年(明治35年)の小田原大海嘯により、海岸沿いの別荘群は大きな被害を受けました。

その後、高台である清閑亭の位置する天神山に別荘群が再形成されました。この高台は、旧小田原城三の丸外郭や大外郭としても利用されていた場所で、黒田長成をはじめとする多くの著名人がこの地に別荘を構えました。

黒田長成と小田原別邸

黒田長成が清閑亭を建設した背景には、彼の政界における地位と人脈が深く関わっています。彼は当時、貴族院副議長を務めており、同時期に隣接して別荘を構えた閑院宮載仁親王家とも深い交友関係を持っていました。1914年(大正3年)には、長成の長男である黒田長礼と閑院宮載仁親王の次女である閑院宮茂子女王との婚儀も執り行われました。

戦後の変遷と現状

1939年(昭和14年)の黒田長成の死後、1941年(昭和16年)には浅野侯爵家に譲られ、戦後は東京国立博物館館長・浅野長武の自宅として使用されました。この浅野家時代に敷地の過半が分譲され、旧小田原城三の丸外郭の水堀や広大な梅林が失われました。その後、1963年(昭和38年)には第一生命保険社が購入し、管理職以上の保養所として使用されることとなりました。

2005年(平成17年)には母屋が登録有形文化財に登録され、2008年(平成19年)には小田原市が敷地・建物を取得。2010年(平成22年)からは「小田原邸園交流館・清閑亭」として一般公開されています。また、山縣有朋小田原別邸・古稀庵で使用されていた長卓が寄贈され、一般利用が可能です。

民間利活用における課題

2021年より、小田原市長の守屋輝彦氏の肝煎りで、民間提案制度が導入され、清閑亭の利活用を巡る議論が活発化しました。最終的に、地元企業であるJSフードシステムが選定され、2024年3月より日本料理店「小田原別邸料理 清閑亭」として営業を開始することとなりました。

無許可営業問題

しかし、開業前の段階で営業許可が下りる前に会費を徴収して料理を提供していたことが発覚し、無許可営業として神奈川県小田原保健福祉事務所から行政指導を受ける事態となりました。業者側は「練習の一環であった」と主張していますが、県側は「実質的な営業活動」と判断し、問題視されています。

国指定史跡内の増築問題

さらに、市が当初禁止していた国指定史跡内での増築を、業者選定後に認めたことが判明し、市民からの反発を招いています。特に、景観や騒音、悪臭などの問題が指摘され、事業見直しを求める声が高まっています。

業者選定と運営の課題

無許可営業や増築問題に関連して、市議会でも業者選定のプロセスや賃料の妥当性が問題視されており、市民からも批判が集まっています。また、現在は清閑亭の庭園への立ち入りが制限されており、市民の憩いの場としての機能が損なわれているとの指摘もあります。

交通アクセス

清閑亭へは、小田原駅から徒歩約15分でアクセス可能です。

Information

名称
清閑亭
(せいかんてい)

小田原

神奈川県