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六所神社(相模國 総社)

(ろくしょ じんじゃ さがみのくに)

六所神社は、神奈川県中郡大磯町国府本郷に位置する神社で、相模国総社として知られています。旧社格は郷社に指定されており、古くから地域の信仰の中心として尊崇されてきました。

概要

六所神社は、所在地の国府本郷に鎮座し、その歴史的な背景と建築様式は日本の神道文化において重要な意味を持っています。

鳥居と本殿

神社の入り口に立つ鳥居をくぐると、参道の先には荘厳な本殿が見えます。本殿は、造営当時は全体が朱塗りであったとされ、その美しさは圧巻でした。五社の神々を祀るため、五つの扉が設けられています。『快元僧都記』によれば、天文9年(1540年)に鶴岡八幡宮の造営の参考とするため、当社の棟札が持ち出されたと記されていますが、平成の修築時には棟札が発見されませんでした。

神揃山

六所神社の正面に広がる道路の突き当りには、神揃山(神集山)がそびえ立っています。この山は、毎年5月5日に行われる国府祭(こうのまち)の座問答神事が行われる場所として知られています。国府祭では、相模国の一宮から四宮、そして平塚八幡宮(五宮格)の神輿が神揃山に渡御され、古式豊かな神事が執り行われます。

祭神

六所神社には、もともと当地に鎮座していた柳田大明神社に加え、相模国の一宮から四宮、さらに五宮格の平塚八幡宮の祭神が合祀されています。このため、六つの神を祀る神社として「六所神社」と名付けられました。

主な祭神

歴史

六所神社の創建は、崇神天皇の時代にまで遡ります。当時、出雲国(現在の島根県東部)からこの地に移住し、開墾を行った人々がこの地を「柳田郷」と名付け、出雲の祖神である櫛稲田姫命・須佐之男命・大己貴尊を祀る「柳田大明神」を建立しました。この神社は現在の六所神社の起源とされています。

養老2年(718年)、元正天皇から国司に対し、当社を相模国の総社に定める勅が下され、同年閏4月8日に現在の場所へ遷座しました。平安時代には国府に近いことから、相模国内の有力5社の祭神の分霊を勧請し、国府六所宮とも称されるようになりました。また、社伝によれば、天応元年(781年)には、早良親王の夷賊征討に際して退攘祈願が行われたと伝えられています。

鎌倉時代の記録

『吾妻鏡』には、鎌倉時代における六所神社の記録が多く残されています。特に、源頼朝が富士川の戦いに向かう途中で参拝した記事や、相模国府において行われた論功行賞の記録などが挙げられます。さらに、源頼朝が東海道の総社や国分寺の復興を命じた際には、当社も修復を受けた可能性が高いとされています。

戦国時代から江戸時代の保護

戦国時代には、北条氏綱が社殿を造営し、北条氏政が本殿を修復したと伝えられています。天文13年(1544年)の『北条家朱印状』には、後北条氏からの厚い保護が記されており、知行高や造営資金が安堵されました。さらに、天正19年(1591年)には、徳川家康より御朱印状が下され、50石の御朱印地が寄進されました。

江戸時代には、六所神社は幕府からも保護を受け、『新編相模国風土記稿』には正保4年(1647年)の府中祭礼における禁止事項や社殿修築の助成に関する制札が記録されています。明治の近代社格制度においては、郷社に列格されました。

祭事

六所神社では、年間を通じて様々な祭事が行われます。元旦祭、節分祭、そして国府祭は特に重要な行事として多くの参拝者が訪れます。また、例大祭や放生会、大祓式も地域の伝統行事として受け継がれています。

六所神社は、長い歴史と深い信仰に支えられた神社であり、相模国の文化と伝統を今に伝える貴重な存在です。訪れる人々は、静かな境内で歴史の重みを感じながら、神々への崇敬の念を新たにすることでしょう。

Information

名称
六所神社(相模國 総社)
(ろくしょ じんじゃ さがみのくに)

小田原

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