川勾神社は、神奈川県中郡二宮町山西に位置する神社であり、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の十三社(小社)の一つです。旧社格は県社に列せられています。
川勾神社は、二宮町山西にあります。この地域は古くから「二宮大明神」「二宮明神社」とも称され、地名の「二宮町」もこの神社に由来しています。毎年5月5日には、大磯町国府本郷の神揃山で行われる相模国の伝統的な祭事である国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の一つであり、同国の二宮に当たります。
国府祭の中心的な儀式である「座問答」は、かつて相武(さがむ)と磯長(しなが、または「師長」とも表記)を合わせて相模国とする際に、寒川神社と川勾神社のどちらを相模国の一宮とするかを巡って争った故事に由来するとされています。
『川勾神社誌』によれば、現在の川勾神社の祭神は以下の5柱です。
『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』によれば、天保12年(1841年)成立の『新編相模国風土記稿 巻之40』では、祭神は衣通姫命・大物忌命・級長津彦命の3柱として記されています。また、江戸時代中期には八幡神が祀られていたことが確認されています。
この八幡神の祭祀は、鎌倉幕府や関東管領が信奉した鶴岡八幡宮の影響と考えられています。また、級長津彦命と級長津姫命は本来風神であるが、「シナ」に通じる磯長国との関連から祭神に追加された可能性が指摘されています。
『二宮川勾神社縁起書』によると、川勾神社は垂仁天皇の御世に磯長国の国宰である阿屋葉造(あやはのみやつこ)によって、国の鎮護のために創建されたと伝えられています。磯長国の中心地に位置し、磯長国造(しながのくにのみやつこ)に由縁のある神社であったとされています。
また、川勾という地名は、往古にこの地を流れていた押切川が曲流していたことに由来すると言われ、神社の名も地名に由来していると伝えられています。
延長5年(927年)、川勾神社は『延喜式神名帳』により式内社、小社へ列格されました。その後、前九年の役や後三年の役の際には源義家が奉幣祈願を行ったとされています。また、源頼朝が建久3年(1192年)に北条政子の安産祈願を行い、神馬を奉納した記録があります。
さらに、鎌倉幕府や関東管領による崇敬を受け、社殿造営や社領寄進などが行われました。嘉禎4年(1238年)には「二宮川匂荘」の記述が残っており、当社が荘園であったことがわかります。
戦国時代には上杉謙信の小田原城遠征により社殿が焼失しましたが、その後、後北条氏によって再建されました。天正19年(1591年)には徳川家康が朝鮮出兵の際に当社に祈祷札を献上し、御朱印地50石を寄進しました。以後、徳川家の崇敬を受け、毎年正月には江戸城へ登城して神札を献上するのが例となり、幕末まで続きました。
明治6年(1873年)に郷社へ列格し、昭和7年(1932年)には県社に昇格しました。現在の社殿は、県社昇格に伴い新築されたもので、戦後の近代社格制度廃止の影響を受けつつも、1951年(昭和26年)に完成しました。
しかし、2011年(平成23年)の台風15号により、境内の夫婦杉のうち一本が倒れるなどの被害が出ました。
川勾神社の境内には、拝殿や本殿があり、参拝者が多く訪れます。また、東五社や西五社、神楽殿、随神門も見どころです。
二宮町指定文化財として、木造随身倚像2体(彫刻)、田船(考古資料)、古文書(歴史資料)などが指定されています。これらの文化財は、神社の歴史や文化を物語る貴重な資料です。
川勾神社では、一年を通じて多くの祭事が行われています。元旦祈祷祭、御筒粥祭、節分祭、祈年祭、国府祭、夏越の大祓、例大祭、新嘗祭、師走大祓などがあり、地域の人々に親しまれています。
川勾神社の所在地は神奈川県中郡二宮町山西2122であり、JR東海道線二宮駅からバスでアクセス可能です。また、西湘バイパス西湘二宮インターチェンジから車で約15分と、車でのアクセスも便利です。