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小田原城

(おだわらじょう)

上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた難攻不落の城

小田原城は江戸時代から現代までの歴史を紹介する展示物や武家文化に関する資料などが、天守閣の内部に展示されています。

甲冑や刀剣、絵図、古文書など、小田原の歴史を伝える貴重な資料があります。

また、NINJA館では戦国時代に北条氏を支えた風魔忍者の存在について体験しながら学ぶことができます。

最上階の標高約60メートルからは相模湾や房総半島までの景色を一望することができます。

小田原城は15世紀中ごろ室町時代に西相模に進出した大森氏が築いた山城が小田原城の前身です。

後に北条早雲がこの城を攻め取り、北条氏の居城として関東地方で君臨しました。

戦国時代には関東地方の中心拠点として拡張整備が進み、豊臣秀吉の攻撃に備えて城下を囲む総構が完成し、日本最大の中世城郭となりました。

江戸時代になると小田原城は徳川家康の支配下に入り、大久保氏や稲葉氏が城主となりました。大規模な改修工事が行われ、近世城郭として生まれ変わりました。

明治3年に廃城となり、多くの建物が解体され、関東大震災により残っていた石垣も崩れ落ちました。

現在の小田原城跡は国の史跡に指定されており、本丸と二の丸の一部が保存されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、天守閣や常盤木門、銅門、馬出門などが復元されました。日本100名城に選定されています。

小田原城址公園内では、一年を通じて様々な花や植物を楽しむことができます。桜や藤、花菖蒲、梅などの季節の花を鑑賞することができます。また、樹齢500年以上の巨木も見ることができます。

本丸東堀にある花菖蒲園では、6月上旬から中旬にかけて約1万株の花菖蒲が咲き誇ります。夜にはライトアップが行われ、幻想的な光景が楽しめます。

以下は、小田原城の関連する人物の一部の紹介です:

小田原城

神奈川県小田原市に位置する城であり、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた平山城です。北条氏の本拠地として知られ、また江戸時代には小田原藩の藩庁として使用されました。現在は国の史跡に指定されています。

城の特徴として、城内には800本の桜が咲き誇り、美しい名園となっています。さらに、ツツジも多く植えられており、訪れる人々を魅了しています。

小田原城は、北条氏が居館を置き、八幡山を詰の城としていました。具体的な建築者は不明ですが、居館部は通説では北条氏以前の大森氏の時代から存在していたとされています。ただし、異説として大森氏時代には現在の三の丸北堀付近に位置していたという説もあります。

この城は、北条氏康の時代には難攻不落の城として知られ、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えました。

江戸時代には近世城郭として改修され、現在の小田原城址の主郭部分となりましたが、八幡山は放置されたため、中世と近世の城郭が共存する珍しい城となっています。

小田原城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために造られた広大な外郭です。この外郭は、小田原の町全体を土塁と空堀で囲んでおり、全長は約9キロメートルに及びます。

豊臣大坂城の構えを凌いでいたと言われていますが、慶長19年(1614年)に徳川家康が撤去させました。

一部は現在も残っており、古地図にも示されています。城主は後に大久保氏となりましたが、城は江戸時代に2度の大地震に見舞われ、被害を受けました。再建された天守は宝永3年(1706年)まで存在しました。

構造

平地部

近世に大久保忠世と稲葉正勝によって改修された部分は、現在の小田原城址公園周辺です。この部分は総石垣造りの城で、関東地方では土塁だけの城が多い中、特異な存在です。それは小田原城が関東の入口として重要視されたためです。

現在の形態での総石垣の城になったのは1632年に始まった大規模な改修後です。本丸を中心に二の丸と三の丸が東に重なり、本丸の西側には屏風岩曲輪があり、南には小峯曲輪、北には御蔵米曲輪がありました。

このほかにも鷹部曲輪、お茶壺曲輪、馬屋曲輪、弁才天曲輪という4つの小さな曲輪があり、馬出としての機能を果たしていました。

建造物としては、本丸には天守や桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓などが設けられていました。小田原城全体では城門が約13棟、櫓が約8基建てられていたと考えられています。江戸末期には海岸に3つの砲台も建設されました。

明治初期にほとんどの建物が取り壊されましたが、本丸、二の丸、茶壺曲輪、馬屋曲輪は復元が進んでいます。鷹部曲輪には図書館や郷土文化館が設置され、小峯曲輪は報徳二宮神社、屏風岩曲輪は遊園地となっています。

御蔵米曲輪は一時期球場として使用され、現在は復元整備が進められています。弁財天曲輪は城址公園外の住宅地となっており、旭丘高校の校地もそこにあります。

また、小田原城址公園に隣接する市有地には、1971年に建設された小田原箱根商工会議所の商工会館がありました。

しかし、商工会館は文化庁の許可を得て建てられたものの、弁財天曲輪や蓮池が国の史跡指定の範囲内にあったため、建て替えが困難でした。そのため、小田原箱根商工会議所は2021年に新しい事務所に移転し、旧商工会館を市に寄贈する意向を示しています。

八幡山古郭

八幡山古郭は平地部に対する詰城となっています。小田原合戦で北条氏政が陣を置いた場所とされています。本曲輪、西曲輪、藤原平、毒榎平などが連なる連郭式の構造です。

本曲輪の南側には南曲輪があり、西曲輪の北側には鍛冶曲輪があり、防御を強化しています。

現在、ほとんどが住宅地となっています。東曲輪の一部は史跡公園として残っていますが、本曲輪やその北側、南曲輪は住宅地となっています。

西曲輪と藤原平は現在の小田原高校、鍛冶曲輪は庭球場、毒榎平は貯水池および城山公園となっています。昔の姿はほとんど残っていません。

総構

蓮上院土塁

小田原城は中核部が二の丸総堀、三の丸総堀、総構堀によって三重に囲まれた構造となっています。二の丸総堀は平地部および八幡山古郭の周りの堀がつながったものです。

三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根に沿った空堀、そして最西端の小峰大堀切で構成されています。小峰大堀切は中世城郭部で最も大きな遺構です。

八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる場所にあり、各丘陵と西側の山地部を切り離しています。総構堀は前述のように小田原の町全体を取り囲む連続した空堀と水堀です。

山地部の空堀は小峰大堀切よりもさらに西の小田原城の最高地点であるお鐘の台を取り込んでおり、そこから北西部の桜馬場、稲荷森に至る総構堀は比較的よく残っています。

平地部の水堀は消滅したり地下に埋まったりしましたが、南西部の早川口や東部の蓮上院周辺にはわずかに土塁が残っています。

歴史・沿革

小田原城の起源は、平安時代末期に相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平の居館とされています。また、「鉢木物語」によれば、北条時頼から佐野源左衛門に与えられたという逸話も存在します。

1416年、上杉禅秀の乱において禅秀方であった土肥氏が失脚し、大森氏が小田原城を奪い、相模国や伊豆国に勢力を拡大しました。

1495年、伊豆国を支配していた伊勢平氏の流れをくむ伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から小田原城を奪い、城を大幅に拡張しました。ただし、古文書には大森氏がまだ城主であったという記録もあり、実際の奪取時期は明確ではありません。

盛時は韮山城を本拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)からであると考えられています。北条氏政や北条氏直父子の時代まで、北条氏の5代にわたって居城として利用され、南関東の政治的な中心地となりました。

1561年、北関東で後北条氏と敵対していた上杉謙信が越後から侵攻し、小田原城の戦いが勃発しました。上杉軍は約11万3千人(関八州古戦録による)とも言われる大軍勢で城を包囲しました。

包囲戦は約1か月間続き、上杉軍の攻撃を撃退したと伝えられていますが、実際には約10日間の包囲だったとされています。

1568年、武田信玄が駿河今川領国への侵攻を開始し、後北条氏は甲相同盟を破棄して越後上杉氏との越相同盟を結び、武田と対抗しました。信玄はこれに対抗して北関東の国衆と同盟し、後北条領国への圧力を強めました。

永禄12年の小田原攻めでは、信玄は小田原城を包囲しましたが、後退する際に後北条勢を三増峠の戦いで撃退しました。後に後北条氏は武田の駿河領有を承認し、甲相同盟を回復しています。

この時の小田原攻めは本格的な侵攻ではなく、軍事的な示威行為に過ぎなかったと考えられています。

後北条氏による小田原城の改築は少なくとも2度行われたとされています。最初の改築は伊勢盛時(北条早雲)が城を得た直後で、大地震があったとされています。

また、1566年から1569年にかけても改築の文書が多数発行され、上杉氏や武田氏の侵攻に備えたものと考えられています。小田原城は後北条氏の本拠地として重要視され、駿河国の駿東郡との争奪戦の中心地であったため、改築が行われたのです。

1590年、豊臣秀吉は天下統一の最後の段階として、隠居していた北条氏政と氏直が指導する北条氏と戦闘状態になりました。

関東の大名である佐竹義重や宇都宮国綱と共に、数十万の大軍で小田原城を総攻撃しました。この戦いは小田原征伐(小田原合戦、小田原の役などとも呼ばれます)として知られています。

秀吉は膨大な物資を持ち寄り、北条氏の支城を個別に攻撃し、敵の兵糧不足に待ち受けて反撃を挫きました。

3か月の篭城戦の末、ほとんど無血で城を開城させました。この篭城戦で北条側が和議と抗戦の継続をめぐって論争した様子が、後に「小田原評定」という言葉として伝えられています。

その後、秀吉は国綱とともに宇都宮に陣を移し、東北地方の大名たちの処遇を決定し、国内統一を完了させました。

江戸時代以降

戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康は江戸城を居城として選び、腹心の大久保忠世を小田原城に配置しました。

小田原旧城は市街地を含む巨大な城郭でしたが、大久保氏の時代に規模が縮小され、明治時代まで大久保氏が城主を務めました。

一方、北条氏は北条氏盛が明治時代になって外様大名として河内国狭山(現在の大阪府大阪狭山市)を治めていました。

近現代

現在、小田原市では城の中心部を江戸時代末期の姿に復元する計画を進めており、天守の再建をはじめとする取り組みが行われました。

1971年には常磐木門(ときわぎもん)の外観復元、1990年には住吉橋、1997年には銅門、2009年には馬出門が復元されました。また、2006年には日本100名城に選定されました。

2013年には木造復元を目指すNPO法人「みんなでお城をつくる会」が設立され、2015年から2016年にかけて耐震工事と壁や屋根の修復が行われました。2016年には再公開されました。2018年には約38年ぶりに堀の水を全て排水し、清掃が行われました。

Information

名称
小田原城
(おだわらじょう)
リンク
公式サイト
住所
神奈川県小田原市城内6-1
電話番号
0465-22-3818
営業時間

9:00~17:00

定休日

12月31日〜1月1日
12月第2水曜日

料金

天守閣
一般 510円
小中学生 200円

駐車場
周辺の有料駐車場を利用
アクセス

電車:
JR・小田急線「小田原駅」より徒歩10分

車:
小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分
西湘バイパス「小田原IC」から約5分
東名高速道路「大井松田IC」から約40分 

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