神奈川県 » 厚木・丹沢

鈴鹿明神社

(すずかみょう じんしゃ)

鈴鹿明神社は、神奈川県座間市に鎮座する歴史ある神社です。戦前の近代社格制度において郷社に列し、現在は神奈川県神社庁により献幣使参向神社として指定されています。

祭神とその由来

主祭神

鈴鹿明神社の主祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と素戔鳴尊(すさのをのみこと)です。特に素戔鳴尊は、疫病が流行した際に京都祇園の八坂神社より勧請され、当地での疫病鎮静を祈り祀られました。

かつての祭神

かつては牛頭天王が合祀されており、『新編相模国風土記稿』(天保12年)の記録によると、当時の神社の信仰対象であったことが記されています。

神社の歴史

創建と由来

創建の正確な時期は不詳ですが、第29代欽明天皇の御代(539年~571年)に創祀されたと伝えられています。さらに、『正倉院文書』には、天平年間(729年~749年)にこの地域が鈴鹿王の所領であり、その名前に由来して「鈴鹿」という地名が生まれたと記されています。

また、当社の縁起によれば、伊勢の鈴鹿郷から神輿が海上を渡御中に暴風で相模国に漂着し、これを機に地元の人々が社を創建し、鈴鹿大明神を祀ったという伝説が残されています。

社殿の再建と修理

鈴鹿明神社には、1556年の再建時に造立された最古の棟札が残されています。この時期、当地は小田原北条氏の領地であり、北条氏照が大壇越を務め、地域の領主若林大炊助とともに再建に関与しました。また、この時に京都祇園の八坂神社の祭神、素戔鳴尊が合祀されました。

その後も、元和6年(1620年)、寛文6年(1666年)、元禄16年(1703年)などに社殿の修理が行われ、その都度棟札が記録されています。

有鹿神社との説話

鈴鹿明神社と海老名市の有鹿神社との間には「有鹿と鈴鹿の神争い」という説話が伝えられています。欽明天皇の御代、伊勢から当地に遷った鈴鹿神と、相模国勝坂にいた有鹿神が財宝を巡って争ったという内容です。この争いで、鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷へと追い払われたとされています。

また、『座間古説』では、有鹿神社と鈴鹿明神社との間で、祭礼時に神輿が行き交う習わしがあったことが紹介されています。これらの伝承は、地元の信仰や歴史に深く根ざしています。

境内と周辺の見所

境内社

鈴鹿明神社の境内には、稲荷社や厳島神社(弁天社)などが鎮座しています。特に厳島神社は弁天池の中央の小島に祀られており、市寸嶋比売命が祭神です。3月3日に例祭が斎行され、多くの参拝者が訪れます。

古い石仏や道祖神

境内に入ると、右側に古い石仏や道祖神、小祠、狛犬が安置されています。これらの石仏や道祖神は、地域の信仰の深さを感じさせる貴重な文化財です。

年間行事と祭事

主な祭事

鈴鹿明神社では、年間を通じて様々な祭事が行われます。1月1日の元旦祭から始まり、2月の節分祭、春祭(祈年祭)、夏越大祓祭、そして8月1日の例大祭など、地域の人々にとって重要な行事が続きます。

特に、かつて行われていた雨乞い神事「竜神いじめ」は、竜神に雨を降らせるための儀式であり、地域の伝統的な神事として記録されています。

かつての例祭日と神輿巡行

『新編相模国風土記稿』によると、例祭は6月7日から14日にかけて行われていました。この期間中、牛頭天王の神輿が仮屋に遷され、星谷寺の僧が法楽を行っていたと伝えられています。疫病が流行した際に病気平癒を祈り、村々を神輿で巡行したのが神輿巡行の始まりとされています。

鈴鹿遺跡

鈴鹿明神社の本殿東側で発見された縄文時代後期の平地建物跡は、昭和57年に座間市指定史跡となっています。この遺跡からは、縄文土器片や石斧、石囲炉などが発見されており、地域の歴史的価値を示しています。

これらの遺物は、当地が古くから人々の生活や信仰の場であったことを物語っています。現在、この遺跡は原形のまま保存されています。

アクセス情報

鈴鹿明神社へのアクセスは、小田急小田原線「座間駅」またはJR相模線「入谷駅」から徒歩約10分です。参拝者にとって便利な立地にあります。

おわりに

鈴鹿明神社は、その歴史と伝統、地域の人々との深いつながりを持つ神社です。古くからの伝承や神話、そして豊かな自然に囲まれた境内は、訪れる人々に心の安らぎを与えてくれるでしょう。ぜひ一度訪れてみてください。

Information

名称
鈴鹿明神社
(すずかみょう じんしゃ)

厚木・丹沢

神奈川県