横須賀港の三笠公園には保存展示されている現存する世界最古の鋼鉄戦艦です。1902年に英国のビッカース造船所で建造されました。
この戦艦は1904年から使用され、日露戦争の「日本海海戦」で東郷平八郎司令長官が指揮を執り、ロシアのバルチック艦隊を撃退して勝利を収めた歴史的な舞台となりました。
この戦闘はアジアの国が西洋の国に勝利を収めた初めての例として世界中で注目されました。
戦艦内では、当時のジオラマや記念品、遺品、手記、勲章など貴重な歴史的な資料が多数展示されており、歴史や戦争について考えさせられる場所です。
記念艦三笠は日本遺産の構成文化財にも認定されています。
戦艦 三笠
三笠は大日本帝国海軍の戦艦で、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊旗艦として活躍しました。
現在、三笠は神奈川県横須賀市に保存・公開されており、日本では三大記念艦の一つとして位置づけられています。
軍艦三笠は敷島型戦艦の四番艦で、イギリスのヴィッカース社で建造され、1902年に竣工しました。命名は奈良県の三笠山(春日山)に由来しています。
船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港であり、同型艦には「敷島」「初瀬」「朝日」があります。日露戦争では1904年から連合艦隊旗艦として使用され、東郷平八郎大将など連合艦隊の指導者が乗艦しました。
1905年の日本海海戦では連合艦隊旗艦として活躍しましたが、その後佐世保港で爆沈しましたが、浮揚・修理が行われ、1908年に修理工事が完了しました。1912年には前部火薬庫火災事故が発生しました。
大正時代にはシベリア出兵などの北方警備に従事しました。1921年に海防艦に類別変更され、1923年には横須賀軍港で関東大震災に遭い、沈没しました。
ワシントン海軍軍縮条約の影響で除籍され、横須賀で記念艦となりました。現在は防衛省の管理下にあり、神奈川県横須賀市の三笠公園に保存されています。
歴史:
建造
日本海軍は、日清戦争後にロシア帝国への対抗策として軍拡を進めました。その一環として、『六六艦隊計画』と呼ばれる計画が進められ、その最終艦として「三笠」がイギリスのヴィッカース社に発注され、建造されました。
バロー=イン=ファーネス造船所での起工は1899年1月24日に行われ、1900年11月8日に進水しました。1902年1月15日から20日まで公試が行われ、3月1日にサウサンプトンで日本海軍に引き渡されました。建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドでした。
3月13日にイギリスのプリマスを出港し、スエズ運河経由で5月18日に横須賀に到着しました。初代艦長は早崎源吾大佐でした。横須賀で整備を行った後、6月23日に出港し、7月17日に本籍港である舞鶴港に到着しました。
戦歴:
1903年7月24日、伏見宮博恭王が「三笠」に着任し、後部砲塔の指揮を担当しました。12月28日には連合艦隊の旗艦となりました。
1904年2月6日からは日露戦争に参戦し、旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加しました。3月5日には加藤寛治少佐が砲術長に任命されました。
8月10日には黄海海戦に参加し、多くの被弾を受けました。戦闘中に後部砲塔で爆発が発生し、1名の戦死と16名の負傷者が出ました。この戦闘をきっかけに、東郷平八郎や加藤寛治、伏見宮博恭王との親密な関係が始まりました。
12月28日には呉に入港して修理が行われましたが、膅発の原因は解明されず、不安を抱えたままでした。
1905年2月14日には呉を出港し、朝鮮半島の鎮海湾に進出しました。以降、同地を拠点にして訓練を行い、5月27日・28日には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊と交戦しました。この海戦でバルチック艦隊は壊滅し、日本は勝利しましたが、「三笠」自体は113名の死傷者を出しました。
日露戦争終結直後の1905年9月11日、三笠は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故により沈没しました。この事故では339名の死者が出ました。事故の原因については諸説ありますが、火のついた洗面器がひっくり返ったことや下瀬火薬の変質が原因とされています。
事故当時、東郷平八郎は上陸しており無事でした。1912年10月3日には前部火薬庫で火災が発生しましたが、注水により爆沈は免れました。
その後、その後、修理され1914年には第一次世界大戦に参戦しました。1921年にはアスコルド海峡での座礁事故により損傷を受けましたが、応急修理を行い舞鶴に帰投しました。
廃艦:
戦間期のワシントン軍縮条約により、「三笠」は廃艦となることが決まりました。1923年9月1日には関東大震災により岸壁に衝突し、ウラジオストク沖で大浸水を起こし着底しました。9月20日には除籍されました。
「三笠」の姉妹艦である「敷島」と「朝日」は武装を撤去して練習特務艦として再利用されました。
「三笠」は解体が予定されていましたが、国民からの保存運動が起こり、現役に戻ることはできない状態で保存されることが特別に認められました。
1925年1月には記念艦として横須賀に保存することが決定し、保存のための工事が行われました。舳先を皇居に向け、船体の外周部に砂が投入され、下甲板にはコンクリートが注入されました。以降、「三笠」は海底に固定され、潮の満ち引きによっても甲板の高さは変わらない状態となりました。
保存に際しては兵装の復元は行われませんでしたが、砲塔には木製のダミーが取り付けられました。
1926年11月12日には「三笠」保存記念式が行われました。式典には皇族や元帥、元「三笠」乗組員などが参列しました。
太平洋戦争では、「朝日」は工作艦として南方作戦に参加し、1942年5月25日に沈没しました。「敷島」は練習特務艦として活動し、「三笠」は保存艦として戦争期間を過ごしました。
ドーリットル空襲時には「三笠」上空からの爆撃が行われ、横須賀海軍工廠で改造中の「大鯨(龍鳳)」に命中弾を与えましたが、「三笠」には被害はありませんでした。
戦争末期の1945年7月18日には横須賀軍港への空襲があり、練習特務艦「富士」と「春日」が損傷し着底しましたが、「三笠」には被害はありませんでした。
その後の荒廃:
終戦後、連合国軍の占領下にあった日本で、「三笠」はロシア帝国の後継国家であるソ連からの解体処分の要求を受けました。しかし、愛国主義者であったアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビー少将やアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥らの努力により、その運命を免れることができました。
終戦から僅か1年後の1946年4月時点で、日本人の窃盗犯によって切断可能な金属部品がガスバーナーで盗まれ、甲板のチーク材は燃料や建材として盗まれていきました。
このため、「三笠」は急速に荒廃していきました。この惨状を知ったアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥は激怒し、海兵隊を配置して「三笠」を守ろうとしました。
しかし、連合国軍の指揮下にあったアメリカ軍が横須賀港を接収すると、娯楽施設が設置され、「キャバレー・トーゴー」が艦上で開催されました。後に後部主砲塔の位置に水族館が設置されました。
この荒廃状態に対して、イギリス人のジョン・S・ルービンが英字紙『ジャパンタイムズ』に投書し、大きな反響を呼びました。
また、チェスター・ニミッツ元帥は東郷平八郎を敬愛しており、「三笠」の状況を憂い、自身の著作の売上の一部を「三笠」保存や東郷神社再建奉賛会に寄付しました。これにより、国内外で復元保存運動が次第に盛り上がっていきました。
当時の日本では、復元保存派と完全撤去派との間で議論が分かれました。完全撤去派の意見では、軍艦を重要文化財に指定する前例がなく、「三笠」が既に荒廃しているため指定が難しいという理由が挙げられました。
さらに、高度経済成長期の時期でもあり、船体を売却して資金を得て記念館を建設する意見もありました。
海上自衛隊でも維持費を捻出できず、「動かない艦を引き取ることはできない」という意見が出されました。しかし、予算が承認されて復元工事が1959年に始まり、同年6月27日に所管が大蔵省から防衛庁(現在の防衛省)に移管されました。工事は1961年に完了し、同年5月27日に復元記念式が行われました。
復元にあたり、長官室に設置されていたテーブルなど、アメリカ軍が撤去した記録が残る物品はほぼ完全な形で返還されました。しかし、持ち去った人物が不明な物品は未だに返還されていません。
1958年にはチリ海軍の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」が解体され、日本に部品が寄贈される幸運もありました。
現在:
「三笠」は現在、博物館船として保存されています。周囲は「三笠公園」として整備されています。
「三笠」は世界で唯一現存する前弩級戦艦です。第二次世界大戦後の荒廃により、元の状態が保たれている部分は少なくなりました。
砲塔や煙突、マストなどは複製品であり、主砲は鉄製で砲塔と一体化し、支柱で砲身の下から支えられています。甲板の大部分も溶接で修復されました。
下甲板には伏見宮が使用していた士官室が保存されていますが、それ以外は「三笠保存会」の事務室や資料室として使用され、一般公開されていません。
下甲板より下はワシントン軍縮条約に基づきコンクリートや土砂で埋められています。
現在、「三笠」の内部を見学できるのは上甲板と中甲板の一部であり、資料展示室や上映室などが設置され、軍艦の姿を想像することができる資料館となっています。
甲板の一部には現役軍艦当時のままのチーク材や、トイレットルームのタイル床、奇跡的に盗難を免れた錨と鎖、アンカークレーンなどが残っています。
通信室周辺の鋲接構造は、第二次世界大戦後に溶接で修復された箇所を除いて当時の遺構です。船首にあった菊花紋章は、1987年まで元の状態で保存されていましたが、現在は復元品に交換され、本体は艦内で公開保存されています。
「三笠保存会」が管理を担当していますが、実際の所有者は日本国防衛省であり、海上自衛隊横須賀地方総監部の施設として登録されています。
点検や修理費用は防衛費から充てられます。防衛施設ではないものの、防衛省の規則上では「船舶」として扱われ、点検や修理を行う業者は防衛省の基準を満たす必要があります。船舶の評価額は2円であり、土地の評価額は約2億5千万円です。
自衛隊員は、横須賀教育隊の一般曹候補生が「三笠研修」として訓練見学に訪れ、自衛隊員のボランティアによる清掃活動も行われています。
予算の制約から、「三笠」への予算は限られており、2009年にはアメリカ海軍空母「ニミッツ」の乗員がボランティアとして「三笠」の船体塗装を行いました。
内部にはVRゴーグルを使用して日本海海戦を体験できる操艦シミュレーターや展示コーナーなどがあります。
略年表:
4月~9月 9:00~17:30
10月・3月 9:00~17:00
11月~2月 9:00~16:30
12月28日~31日
入艦料
一般 600円
65歳以上 500円
高校生 300円
小・中学生 無料
公共交通機関:
京急 横須賀中央駅より徒歩約15分
京急 横須賀中央駅より循環バスで「三笠公園」下車4分
車:横須賀IC 本町山中道路終点から5分