片瀬東浜海水浴場は、神奈川県藤沢市片瀬海岸一丁目に位置する全長560メートルの遠浅の砂浜を有する海水浴場です。日本の水浴場88選に選ばれており、夏の訪れとともに多くの観光客で賑わう人気スポットです。管理は江の島海水浴場営業組合によって行われており、同組合では「江の島海岸東浜海水浴場」という名称で運営されています。
片瀬東浜海水浴場は、境川と神戸川の間に広がる砂浜のうち、境川寄りに位置しています。この砂浜は、さらに東側の鎌倉市腰越三丁目にかけて延びており、神戸川寄りは腰越海水浴場として知られています。両者は地続きで、特に仕切りなどは存在せず、連続した砂浜が続いています。
この海水浴場の魅力は、まずその景観にあります。目の前に広がるのは江の島の美しいシルエットで、左手には三浦半島を一望できる絶好のロケーションです。また、波が穏やかであることから、家族連れや初心者にも適した環境となっています。片瀬東浜海水浴場へは、小田急江ノ島線、江ノ島電鉄線、湘南モノレールといった公共交通機関からのアクセスが便利で、利便性が高い点も特徴の一つです。
7月1日の海開きから8月いっぱいにかけて、海の家が25軒、飲食店が30軒、売店が2軒と、多くの施設が軒を連ねます。また、トイレは仮設を含めて19か所に設置されており、訪れる人々の利便性に配慮されています。安全管理は「EMERGENCY LIFESAVING CORPORATION」が担当しており、ビーチの清掃活動も各種団体によって活発に行われています。
片瀬東浜海水浴場の水質は、環境省の水浴場水質検査において「B」(可)と判定されています。これは不適とまではいかないものの、理想的な水質とは言えない状況です。また、バーベキューやキャンプ、個人的な花火、水上オートバイなどの行為は禁止されています。
片瀬東浜海水浴場の歴史は古く、1879年(明治12年)にエルヴィン・フォン・ベルツが海水浴場の適地を探してこの地を訪れたことが始まりです。ベルツは片瀬を内務省に紹介し、これが事実上、日本で最初の海水浴場とされる可能性があります。
さらに、1899年(明治32年)の日英通商航海条約発効までの期間、横浜の外国人居留地に住む外国人たちは、行動範囲が10里以内に制限されていましたが、その範囲内にあった片瀬や江の島は、風光明媚な観光地として多くの外国人が訪れるようになりました。
1891年(明治24年)には、学習院が隅田川の浜町河岸にあった游泳演習場を片瀬に移し、さらに1904年(明治37年)には片瀬海岸に学習院の寄宿舎が建設されました。しかし、片瀬の海水浴場が一般客で混雑し始めると、1911年(明治44年)に游泳演習場は沼津に移されました。その後、1915年(大正4年)に川口村の村営海水浴場として片瀬東浜海水浴場が開設されました。
太平洋戦争後、片瀬東浜海水浴場は再び賑わいを取り戻し、1950年代には「東洋のマイアミ」として知られるようになりました。1957年(昭和32年)には江ノ島水族館がマリンランドを開設し、藤沢市は片瀬・鵠沼地区を「東洋のマイアミビーチ」として売り出しました。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、江の島がヨット競技の会場となり、片瀬東浜海水浴場もその波静かな環境が注目されました。
現在、片瀬東浜海水浴場は年間約83万人の来客を迎え、鎌倉や須磨と全国2位の人気海水浴場の座を争っています。特に女性客の比率が高く、幅広い年代層から支持されています。夏の間には多くのイベントが開催され、湘南の夏を象徴する存在となっています。
7月1日の海開きに始まり、7月中旬の八坂神社幸祭「神輿海中渡御」、手作りボートレース、湘南龍の口灯籠流しと納涼花火(境川河口)など、夏の間に多くのイベントが開催されます。8月第1火曜日には、江の島花火大会も行われ、多くの人々が集います。
片瀬東浜海水浴場へのアクセスは以下の通りです。
1937年(昭和12年)には、片瀬町青年団が「江の島縁起ページェント」を開催しました。これは「江嶋縁起」に基づいた野外劇で、地元の龍神囃子や小学生のコーラスと共に、五頭龍と弁財天の伝説を再現しました。このイベントは、1940年(昭和15年)まで4年間続けられました。また、1951年(昭和26年)には、大映映画『江の島悲歌(エレジー)』が公開され、その主題歌が大ヒットしました。