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しとどの窟

(いわや)

後に鎌倉幕府の開祖となった源頼朝が、1180年の石橋山の戦いで敗北した際に身を隠したとされる洞窟です。

「土肥椙山観音像群」として知られる20体以上の石仏が洞窟内に安置されており、荘厳な雰囲気を醸し出しています。

洞窟内では湧き水のせせらぎや苔むした岩石、夏でも涼しく暗い雰囲気が非日常的な体験を提供してくれます。

この洞窟は「人の知らない谷底の厳窟」として伝えられており、源頼朝が敗走した際に彼と7人の仲間が潜んだ場所です。

源頼朝とその一行が洞窟に潜んでいた際に、平家方の梶原景時に見つかりました。しかし、梶原景時は情けで見逃したという逸話も残っています。

現在、洞窟は城山ハイキングコースの途中にあります。少し足を延ばして、この秘境を訪れ、非日常の雰囲気を楽しんでみてはいかがでしょうか。

真鶴町の「しとどの窟」

しとどの窟は、治承4年(1180年)の石橋山の戦いで平家に敗れた頼朝が潜んだ場所です。

頼朝はその後、岩海岸(現在の岩海水浴場)から安房国へ脱出したと言われています。治承5年(1181年)には専光房良暹の弟子僧がしとどの窟で頼朝の守り本尊である正観音像を発見し、鎌倉の頼朝に届けたとされています。

真鶴町にあるしとどの窟は、頼朝の時代には奥行き130mあったと言われていますが、波の浸食により江戸時代末期には幅3m、奥行き11mほどの大きさになりました。関東大震災の際には土地の隆起が起こり、現在の高さとなりました。

また、第二次世界大戦時には真鶴岬溶岩から多くの石材が切り出され、規模が現在のものになりました。品川台場の礎石にも真鶴産の石が使用され、現地には品川台場礎石の碑が残されています。

また、真鶴には「青木」、「五味」、「御守」という3つの名字があります。これらの名字は頼朝がしとどの窟に身を隠した際に手助けをした人々に与えられたもので、それぞれが手助けの内容にちなんでいます。「青木」は入り口を隠した人に与えられ、「五味」は食料の手配をした人に与えられ、「御守」は頼朝を守るための見張り役をした人に与えられた名字です。

石橋山の戦い

治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と源頼政が、平家打倒のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件「以仁王の挙兵」により、源頼朝と平氏政権勢力との間で行われた戦いです。。

以仁王の挙兵の計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧されました。

しかしこれを契機に諸国の反平家勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まり、以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれます。

石橋山の戦いは治承・寿永の乱の中で起きた戦役の一つであり、「義経記」では小早川の合戦とも呼ばれています。

治承4年(1180年)に源頼朝は石橋山に陣を構え、平家軍は谷を挟んで布陣しました。しかし、頼朝は大敗し箱根山中に敗走しました。

源頼朝は以仁王の令旨に基づいて挙兵し、伊豆国の山木兼隆を襲撃して殺害しました。

8月20日、源頼朝はわずかな兵力で伊豆を出発し、相模国の土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)まで進出しました。これに対し、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季貞、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃しました。

23日、源頼朝は300騎を率いて石橋山に陣を構え、以仁王の令旨を御旗に掲げました。一方、谷を挟んで大庭景親の軍も布陣しました。

さらに伊豆国の豪族 伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出し、頼朝の背後を封鎖しました。

この日は大雨となりました。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍との合流ができませんでした。

前日に三浦一族は源頼朝との合流を目指して進軍し、途中で大庭景親の一派の館に火を放ちました。これを見た大庭景親は三浦勢が到着する前に決着をつけようと考え、夜戦を仕掛けることにしました。闇夜の暴風雨の中、大庭軍は源頼朝の陣に襲いかかりました。

頼朝軍は激戦を繰り広げましたが、多勢に無勢で敵わず、工藤茂光や岡崎義実の子である佐奈田与一義忠らが討ち死にし、大敗しました。佐奈田与一(真田余一)の奮戦が伝えられ、「佐奈田霊社」という神社が建てられています。

大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝と一行は大庭軍の飯田家義の案内で土肥の椙山に辛くも逃げ込みました。

翌24日、大庭軍は追撃を続け、頼朝軍の残党は山中で激しい抵抗をしました。源頼朝も自ら弓矢を手にして武芸を披露しました。散り散りになった頼朝軍の武士たちは順次頼朝のもとに集まり、源頼朝は木の上に立って彼らを喜ばせました。

土肥実平は人数が多くて逃れることは不可能だと判断し、ここは自分の領地であり、源頼朝 一人ならば命を賭けて隠し通すべきだと進言しました。

そこで皆はここで別れ、雪辱の機会を待つこととなり、別れ際には涙を流しました。

北条時政と二男の義時は甲斐国に向かい、嫡男の宗時は別の道を進みましたが、途中で伊東祐親の軍勢に包囲されて討ち死にしました。

大庭軍は山中を徹底的に捜索しました。大庭軍には梶原景時という武士がおり、源頼朝の潜伏場所を知っていたものの、情けを持って隠しました。

梶原景時は源頼朝を案内し、この山は人の足跡がなく、向こうの山が怪しいと誘導し、源頼朝の命を救ったのです。この出来事をきっかけに梶原景時は源頼朝から重用されるようになりました。この伝説の地として、湯河原町の椙山には「しとどの窟」が伝わっています。

また、隣町である神奈川県真鶴町の真鶴漁港にもしとどの窟が存在し、源頼朝が房総半島へ渡るまでに複数の場所に身を隠したと言われています。

しとどの窟という名前の由来は、追手が「シトト」と言われる鳥が急に飛び出してきたため、人影がないと思って立ち去ったからだと言われています。

源頼朝が房総半島を訪れた際、いすみ市江場土地区の小高い丘で休憩しようとしたところ、地元の農夫から藁の束を座布団代わりに差し出されたことに感激し、「一藁」という姓を授けました。

石橋山の戦いの敗走後、源頼朝は船で安房国へと逃れ再起を図りました。

Information

名称
しとどの窟
(いわや)
リンク
公式サイト
住所
神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋
電話番号
0465-63-2111
料金

無料

駐車場
椿台駐車場を利用
アクセス

湯河原駅より元箱根行きバス しとどの窟入口 バス停下車 徒歩10分
(バス乗車時間約40分・城山ハイキングコース内) 

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